|物語、輪郭の滲んだ物語|

 

物語の中で読んだ物語をそのままに記す.

誰であっても、私であったとしても、この物語から想像するしかないのだ.但し、足がかりはある、賑やかなメモ.

賑やかなメモ ・→

 

 

 

わが神、わが神、なんぞ我を見捨て給いし.

返答

美しさについて言えば、

あなたは美しくなかった.あなたが美しくなかったので、わたしはあなたを顧みない.それは、あなたが美しくなかったからだ.

あなたが美しくなかったので、わたしはあなたから目を背ける.それは、あなたが美しくなかったからだ.

愛について言えば、

わたしは愛について語った覚えなどない.あなたの語る愛など、一体わたしと何のかかわりがあろうか.

わたしが愛する者とは、わたしが常に思いを寄せ、愛してやまない者とは、あなたではない.

わたしは、あなたの知らない、あなたとは別の者を愛する.

 

 

予め、定められていたその日、その時刻 ( そのような定めなど、私とは一切無関係だ ) 、その場に集まった多くの人たちは、 しるし を求めて天を仰いだ.私と彼だけが、地に耳を傾けた.

私は彼に気づいたが、彼が私に気づいたかどうか、私には分からない.

どちらにしても、彼と私とは、いずれ、そう遠くないうちにある種の共同作業を行うことになるのだが 、彼がそれを知っているかどうかも私には分からない.彼が知ろうと知るまいと、そのようになるのだ.否、もうすでに始まっているのだ

彼は私を見たし、私を知っているし、当然彼はそのことを知っている.私を見る彼の目は、そうだ、あの目だ、優しかった小夜の母の目.

彼とは、“ いまだ小さき夜のために ・→ ” の筆記者であり、[ 初原、行列する集落 ] における小夜の父であり、“ 私 ”とは、物語の中で物語を読み、読んだ物語をここに記す私であり、元は “ 永遠の傍観者 ” であったが、後に “ すでに行為する者 ” となった私 ・→である.

 

小夜、踊ろう、最後のダンスだ.

 

 

 

 

登場人物

小夜

  • かつては、“ いまだ小さき夜 ” として語られた者であり、自分の祭壇を探し求める者であり、その体内に “ ふしだらな血 ” を宿す者であり、他の登場人物同様、“ ふしだらな血の系譜 ” にある者である.
  • 物語によれば、[ 蛇潜り、漆芸の家 ] で誕生し、その後、[ 初原、行列する集落 ] へと移された.

 

小夜の母

  • [ 初原、行列する集落 ] における小夜の母であり、消失して不在となる者.
  • [ 輪郭の滲んだ町 ] のホテルの女中によって、「 彼女については、私たちにも分からない.私たちとは出自が明らかに異なる. 彼女の香りは私たちのそれとは縁のないものである.」と語られた者であり、他の登場人物とは一線を画す特殊な身体である.

 

小夜の父

  • [ 初原、行列する集落 ] における小夜の父であり、“ いまだ小さき夜のために・→ ” の筆記者.“ ふしだらな血の系譜 ” にある者.

 

魚釣りの少年

  • [ 初原、行列する集落 ] を流れる川で魚釣りをする少年.

 

すり替わった母

  • [ 初原、行列する集落 ] において、小夜の母の消失と同時に訪れた新しい小夜の母.“ ふしだらな血の系譜 ” にある者.

 

[ 蛇潜り、漆芸の家 ] の女主人

  • 香を扱う者であり、物語によれば、小夜の生みの母.“ ふしだらな血の系譜 ” にある者.

 

[ 蛇潜り、漆芸の家 ] の塗師の女

  • [ 蛇潜り、漆芸の家 ] の塗師の一人で、小夜に多くの事を教える.“ ふしだらな血の系譜 ” にある者.
  • 小夜は、彼女を “ おねえさん ” と呼び、彼女は、小夜を “ さよちゃん ” と呼んだ.

 

尋ねる者がたどり着く町 ] のホテルの女中

  • 小夜がたどり着いた、[ 尋ねる者がたどり着く町 ] に立つホテルの女中.“ ふしだらな血の系譜 ” にある者.

 

  • [ 尋ねる者がたどり着く町 ] の [ 蛇の棲み家 ] で小夜と対話する者.

 

不可解な作業員

  • [ 尋ねる者がたどり着く町 ] の空き地で、不可解な作業をする人たち.

 

 

 

 

輪郭の滲んだ物語

 

 

 

初原、行列する集落

 

 

秩序.

朝、そして、夕、夜を経て再び朝.果てない円環は、季節を削ぎ落し、まんべんなく降り注ぐ柔らかな日差し、頬を撫でる穏やかな風といった、なんとありきたりで、異様なほどの単調さを.

秩序は、欺きと罠と試みと、そして しるし を隠すことに大いに役立った.いくつかの予想しない出来事が起きたにせよ ―この類の物語愛の物語だ、においては、常にそうしたハプニングに見舞われるものであるが、それさえもが ―、結果から言えば、それらの仕掛けは、概ね良好に動作し、計画は成就した.やはり、私は無力だったのである.

私は隠さずに語ろう、私の無能を.

 

 

 

行列する集落、小夜の家、

 

南北に伸びる軌道、そのあたりを一望できるほどの高みにある無人の駅.その駅を基点とするならば、軌道と直行し、駅から西へと伸びる細い一本の道の両側に、同じ広さの敷地、同じ間取りの戸建ての住居が道とともに続いていた.[ 行列する集落 ] と呼ばれ、道が直線であれば、そのなりに、道が円弧を描けば、その住居の行も円弧を描いて従った.

住居の行は、始まりなく始まり、ゆえに終わりのない行列でもあった.いつもそのようであった.※住居の行は道に従う、道が支配するのだ

小夜の家も、その住居の行の一要素としてあった.一見、他の家との違いはなかったが、小夜の家にのみ、裏庭に、窓のない、外の光を遮断した風な小さな小屋が立っていた.外部との遮断は、薄いトタンで幾重にもわたって、多くの時に渡って、なされているようだった.

住戸の行の持続は、小夜の家の前で途切れた.途切れたが、その後修復されて何もなかったかのように持続は持続し続けた.即ち深夜の足音、それは常に多くだ、は、小夜の家の前で乱れたが、乱れたにしてもである.ゆえに、ある者は、この集落を “ 行進する集落 ” と呼んだ.

小夜の家は、小夜と父と母が、義務として与えられた作業を行うためにだけあるようだった.即ち、蝶を採集して、採集した蝶を殺害し、殺害した蝶を標本にし、標本を写真におさめ、そして標本を焼却するためにだけあった.最後に写真だけが残ったが、写真の行方は誰も知らなかった.

この家で行われる事は、その繰り返しであった.

 

 

 

 

小夜、父、母.

 

小夜は、一人の父と一人の母に育てられた.

二人は実の両親ではなかったが、血でいえば、同一の流れを汲む者で、否、ホテルの女中が「あなたの母親の血は、明らかに、私たちとは出自が異なる. 」と語った.物語への異なった血の混入が、この物語を分かりづらくしている原因の一つでもあるのだ.

二人が小夜に注ぐ愛情は、一見、誰もが理解容易なものに思えた.

父は無口な人であったが、誠実な人であった.週末以外は、毎朝同じ時刻に出かけ、夕方同じ時刻に帰宅した.彼が何処で何をしているのかは、誰も知らなかった.

母は、肌が白く、切れ長の目は涼しげで、肩まで伸びる漆黒の黒髪、それはまるで、それ以上の長さを必要とせず、それ以下の長さでは不都合なようでもあったし、髪によって何かが隠されているようでもあったが、誰も何も知らなかった.

母の身体からは、いつも仄かな良い香りがしていた.いつも同じ香りで、小夜はその香りが大好きだった.ホテルの女中はこの香りについてもこのように語っている.「あなたの母親の香りも、私たちとは何の縁もないものである.」

小夜も母同様、その肌は白く、血管が透けて見えるほどであった.特に、大好きな父や母と会話するときには、体内に流れる血液が皮膚全体に染み渡るように赤く染まった.

 

 

小夜は、父と母に愛されたし、この集落の人たち皆が小夜を愛した.小夜も、父と母の事を好きだったが、愛してはいなかった.小夜は、まだ愛することを知らなかったし、愛することは元から小夜には求められてはいなかった.小夜は、ある種の愛を受け入れる者として育てられた.愛の物語と呼ばれる所以である.

この集落に住まう人たちについて言えば、ルビすまうひとたち・・・、一体私は誰の事を言っているのか、季節が失われたとはいえ、一見、他の集落とは何ら違いもなく、なんと穏やかな、なんと親しみやすく、何と異様なほどに、但し、ある時刻、深夜と言われる区画、いくつかの合図、例えば、列車の走る音、警笛、地面を伝わる僅かの振動、それらがこの集落に訪れる時、親和性は瞬く間に乱れ、互いに監視する集落へと変貌した.ルビたがいに・・・、一体私は誰の事を言っているのか、即ち、足音、それも多くだ.

 

 

 

 

川、草地.

 

住戸の行の北側には、草地が広がり、一本の川が流れていた.川には一つも橋がなかったので、広い草地が一本の川によってあちら側とこちら側に分断されているようだった.

川はゆったりした円弧を描きながら、但し、時折、急にその半径を小さくしたり、時折、ながら、住戸の行と時には離れ、ときには近づきながら、即ち川と住戸の行に挟まれた草地を広くしたり狭くしたりしながら流れていた.小さな集落を流れる小川と言うに最もふさわしい様相であったが、その相応しさは異様なほどでもあった.※だから、もうすでに何度も書いている、異様なのだと.

草地は、ところどころ地肌を露出していたとはいえ、全体的には当時の小夜の体躯で、かかと程度の高さの草に一面覆われていた.

川について言えば、水は澄み、川底は常に目に現れ、深い場所でも、当時の小夜の体躯で膝下程度.川底には大小様々の石が転がっていたが、大きなものでも、当時の小夜の体躯でいえば頭部程度.

川幅も決して広くはなく、広い部分でも、当時の小夜の歩幅で10歩程度、狭い場所では5歩程度.多少の跳躍力があれば、一飛びで越えられそうな程度であった.

水の量は決して多いとは言えないが、しかし、途切れることなく流れ続けていた.流れは、非常にゆったりしていて、流れているのかどうかも分からないほどであったが、川のあちらこちらに形作られる瀬が、川の流れを証していた.

川のあちら側の草地は徐々に高さを獲得して、それほど高くない山々の連なりとなり、乾いた風がこの集落に吹き込んでいた.

道、住戸の行、そして草地、それらはそれら固有の意味を担い、それらがどこから始まり、どこまで伸びているのか誰にも分からなかったし、川の始まりも終わりも、誰も知らなかった.川は、どこにも流れ込まず、何も入り込まず、即ち意味の混濁がなされないままに、ただ一筋の川として終始流れ続けていた.

 

決して交わることのない川と住居の行は、この集落に住む人たちと小夜との関係のようでもあったし、この物語の性格を表わしているようでもあった.

 

 

川、水が止まり、遠く、隔たりなく、隔たれた場所、

 

小夜の家の真北、ゆったりとした円弧を描きながら流れていた川が、突然川幅を向こう側に広げ、否違う、不吉な、真上から見なければ、だれがその不自然さに気が付くであろうか.川の流れに何かとってつけたように川幅のあちら側に大きな水たまり、それはほぼ正円で、直径は当時の小夜の歩幅で20歩程度、が接したようなその形態は、その周囲に生える草や樹木によってその接合の不自然さを隠されてはいるが、何か異様でもあった.川に接しているとはいえ、流れからは隔たりなく隔たれたように水が止まり、深さも分からないほど深いようであった.

向こう岸には、背の高い樹木が立ち並び、枝が広く張り延ばされ、日差しは遮られ、鬱蒼として、まるで何かを何から隠しているようでもあり、まるで小夜の母の髪同様に、それ以上は必要ないが、それ以下では用を足さないようでもあった.

住戸の行の北側に広がる草地の草は、この場所、この一点で一気にその背を伸ばし、人ひとりを隠せる程度の高さに到達していた.

水の止まった場所は、向こう岸の背の高い木々の影を水面に映し、水面は緑色をしていた.
この一箇所が、この集落に何とも言えない違和感、不調和、不協な面持ちを与えていた.

 

 

この場所で、少年はいつも魚釣りをしていた.少年はいつも、自分より背の高くなった叢に身を隠すようにして、水の止まった場所、深さも分からないほど深く、明かりの届かない鬱蒼とした水たまりに釣り糸を垂らしていた. 

 

 

すでに、仕掛けは動作し始めていたのだ、小夜、

 

 

 

 

小夜、父、草地、蝶取り、

 

毎週末、小夜と父は蝶を採集した.蝶取りは、集落の北側、住戸の行と川に挟まれた草地で小夜と父によって行われた.広くなったり狭くなったりはしながらも、川に沿ってどこまでも伸び、住居の行と川を隔てる草地で、必ず毎週末、朝から行われた.行われない週末はなかった.

 

小夜の母は、二人のために簡単な昼食、それは、おにぎりであったりサンドウィッチであったり、そして少しのおやつと水筒を準備した.それらを入れたリュックサックは父が背負い、捕獲用の網は小夜が持った.
リュックサックの中にはパラフィン紙を折って作られた三角紙も入っていた.それは捕獲した蝶 ( 捕獲された蝶はその場で殺害される ) を家まで棄損なく持ち帰るためのものであった.
父は、飛翔する蝶を素手でいとも簡単に捕まえた.( 当たり前のことだ.飛翔する蝶とは、彼が夜ごとに書き続けた “ いまだ小さき夜のために・→ ” であるのだから. )
小夜は、捕獲用の網をもってしても、一頭も捕獲することができなかった.
蝶の飛翔に関する記述.関連事項、即ち何の予表か?その動きを予測
小夜は、早く父のように蝶を捕獲できるようになりたいと思った.が、何度やっても捕獲することはできなかった.
父は、蝶を捕獲すると、胸部を圧迫してその場で殺し、三角紙に丁寧に包んだ.
父は楽しそうに蝶を追いかける小夜を見ていた.父は飛翔する蝶を一頭、素手で無造作に捕まえると、握りつぶし、手のひらについた鱗粉を何か汚いものにでも触れたように払い落とすと、「もう、うんざりだ. 」と呟いた.何かが、彼の気を滅入らせていた.

 

小夜は、毎週末の蝶取りを、楽しいと思ったし、父と一緒にいる時間も楽しかったし、お母さんも一緒に来ればもっと楽しいのにと思っていたが、母はいつも来なかった.週末の蝶取りは、必ず、父と小夜の二人で朝から夕暮れまで、川と住戸の行を隔てる草地で行われた.

 

 

夕方、蝶取りを終えて家への帰り道、少年はいつもの場所で、草が徐々に背を伸ばしながら、到達点、小夜はその姿を見た.いつもとは異なった見方で################################################################################################################.

小夜の父は、小夜に、一人で川に来てはならないし、行ってもいけない.と言った.

小夜は、傍に父がいることを忘れたかのように.高い草むらを見続けていた.ほぼ正円に開け広げられた眼で、他のものを見るのとは異なった仕方で.小夜の眼は瞬きをしていなかった.

 

そんな小夜の姿を見て、父は、もうすでに始まっているのだと思った.同時に、自分ではどうしようもない事なのだとも思った.

小夜、私は、私の無能を語ろう.小夜、

 

さあ、小夜、ダンスを、小夜、

 

 

いつもは早く床に就く小夜も、蝶取りの日の夜は、小夜は遅くまで起きていることを許されていた

その日に採集した蝶の展翅、前の週に展翅した蝶の標本づくり、そして撮影、それら一連の作業を行うためであった.但し、標本の焼却は翌日、母と小夜によって、裏庭の焚火炉で行われた.

 

 

 

 

蝶、標本づくり.

 

蝶取りの夜は、小夜は父と蝶の標本を作った.小夜は、普段は早く床に就いたが、蝶取りの夜だけは、標本を作るために遅くまで起きていた.

蝶の標本づくりは、父と小夜の二人で、小夜の家の座敷で行われた.小夜と父が標本を作っている間、母は台所で水仕事をしていた.小夜は、父と母と三人で遅くまで起きていることが、とてもうれしかった.

小夜と父が作る標本は、一般的な標本の目的とするところ、即ち、記録であるとか、証拠であるとか、とは意味が大きく異なっていた.決定済みの事項をさらに強固にするために、言い換えれば、焼却するために標本が作られた.標本づくりは、小夜と父の共同作業であった.

遅い時間は、集落全体が静まり返り、時折、遠くで列車の走る音と、警笛、列車が走るたびに、僅かな振動が感じられた.

 

作業の流れはいつも同じであった

  • 展翅→標本→撮影.今日捕獲され、その場で殺害された蝶の展翅、前の週に捕獲され、展翅され、乾燥させられていた蝶の標本づくり、作られた標本の撮影、
  • それらの作業に必要な道具は座敷の押入れに入っていた.
  • 押入れを開けると、部屋の明かりは手前だけは照らし出したが、奥までは届かなかったので奥は真っ暗だった.
  • ペンとインク壺だけは、裏庭の小屋から持ってきた.

 

父は押入れから作業のための小さなテーブルを出した.すべての作業はこのテーブルの上で行われた.このテーブルはこれから始まる一連の作業のためだけに用いられ、他の目的で用いられることはなかった.

小夜と父はテーブルをはさんで正対し、まるで何かの儀式を始めるかのように、一連の作業は開始された.

 

 

 

蝶、展翅.

 

先ず、その日に捕獲した蝶の展翅が行われた.

展翅は、標本にするために、蝶の翅を広げ、固定、翅を広げて整形し、乾燥、本来の?美しさ、形が固定、定着、保管、期間.電球、蛍光灯、時代背景.自然の摂理からの逸脱、円環からの逸脱を意味していた.

  • 展翅に用いる展翅板は、数ある大きさの中から、その蝶の翅を広げた時の大きさに合わせて選ばれた.
  • 押入れから木箱を出す.木箱にはたくさんの展翅板が入っていた.
  • 木箱は黒く、光沢があり、漆塗りか、
  • すべての展翅板は、とても古くから使い込まれているようで、表面は黒ずみ、無数とも思えるほどの針を刺した小さな穴が開いていて、触れるとざらざらしていた.
  • 父は、パラフィンの三角紙から、その日に捕獲した蝶を取り出すと、パラフィン紙、丁寧に羽を広げ、広げた紙の上に丁寧に並べた.
  • 展翅に用いられる虫ピンは、針の頭に丸い小さな玉のついたもので、玉は透明、ガラスの記述はせず、様々な色、部屋の明かりを受けて、きらきらと光っていた.
  • 玉の色の色分け、目的、蝶の部位
  • 天井から下がる電球のあかりに照らされて、きらきらと輝く玉が、小夜は大好きだった.多くの色の中で、小夜は赤色の玉が好きだった.灯に照らされた赤色の玉は、鮮やかにより赤く光り輝き、小夜の目を奪った.
  • 展翅が始まると、
  • 展翅の様子の記述.
  • 父は小夜に、「小夜、そんなに翅を広げてはだめだ、翅が壊れてしまう、小夜、」「小夜、だめだ、そこに針を刺すと、形が壊れてしまう.」「小夜、そんなに強く翅に触ると、粉が剝がれてしまう、小夜、気を付けて、違う、小夜、」「小夜、優しくだ、それじゃあ蝶が飛べなくなってしまう、小夜、」そして「小夜、そうだ、それでよい、美しい、小夜、」と言った.
  • 小夜は、大好きな父の役に立っていることが、とてもうれしかった.
  • 展翅は、その日に捕獲した蝶の数だけ行われた.即ち、父によって殺害された蝶の数だけ行われた.
  • 美しく翅を広げられ、顕にされる、展翅板に固定された蝶は、小夜の家の裏口に置かれた.
  • 小夜の家の裏口の戸は常に開けられていて、川向こうの山々から吹き届く柔らかく乾いた風は、蝶の乾燥を早め、一週で蝶は乾燥した. 

 

 

蝶、標本づくり.

 

その日に捕獲した蝶の展翅が終わると、先週から展翅板に架けられたまま裏口で乾燥されていた蝶の標本を作った.

  • 既に、蝶は
  • 乾燥した蝶の死骸を展翅板から、丁寧に取り外し、
  • 台紙の切り出し、カッターナイフで、蝶の大きさに合わせて、蝶の大きさよりも少し大きく、それは常に正方形で、厚紙の切り出し.
  • 白い厚紙の中央部に一本の虫ピンで固定した.
  • この時に用いる虫ピンは、頭のない、
  • 蝶の死骸は、白い台紙から僅かに浮かされて固定されていたので、天井の電球による強く黒々とした影が、白い台紙に落ちていた.

 

 

父、標本への書き込み.

 

このコンテンツで、小夜の舌の描写.二つに分かれた舌、小夜の父は小夜のそのような姿を見る.悲しそうに、

かりかりとした音、部屋の温度の上昇、インクの香り、小夜の蛇としての本質が出現.oy.2858、oy.2859

  • 標本が完成すると、父は青のインクが入ったインク壺とペン、裏庭の小屋から、インク壺とペンだけは裏庭の小屋から持ってきた.
  • インク壺の蓋を開けると、インクの匂いが、
  • 小夜は口から、忙しく出入りする舌、インクの香りに反応.
  • 父は、沈痛な面持ちで小夜のその姿を見つめていた.何をいまさら、この章で、初原の章で、それも冒頭で書かれているではないか.この計画はすでに成就しているのだと.
  • 標本、中央部下部、蝶の両翅のちょうど中間、青のインクで何かを描いていたが、小夜、分からない
  • カリカリとした音、
  • 文字の量は多い時もあったが、大抵は少なかった.
  • 父の右手の指先、青のインクが染みこんでいた.幾度にもわたる書き込み、指先の青色の記述.
  • 小夜は、小さな手を伸ばして父の右手の指先、親指、人差し指、中指、ペンを持つための指先に触れた.
  • 父は小夜の顔を見て笑い、小夜も父の顔を見て笑った.
  • キャプションが書かれた標本は、畳の上に並べられ、写真に撮られるのを待っていた.

 

 

 

蝶、標本、複写.

 

標本が完成すると、

複写台にカメラを水平に取り付け ( 複写台には、カメラは水平に取り付けることしかできなかった※複写機の機構による制限 )、部屋の明かりを消し、複写台に取り付けられている二灯の電球を点けると、部屋は一気に明るくなった.

  • カメラは、標本を撮影するためだけに用いられ、それ以外の用途に用いられたことはなかった.
  • 父は畳の上に並べられた標本の中から一つ取り、中央部に置くと、水平に設置されたカメラを覗き、標本が中央部にくるように注意深く位置を決めた.
  • それは、前の週に捕獲された殺害された蝶であり、この時のために裏口で乾燥させられていた.
  • 更に、蝶の翅の開きを調整か?翅は美しく開かれ、文様は露わにされ、そしてファインダーの中央部に配置された.
  • 父は小夜に「小夜、覗いてごらん. 」と言った.小夜が、ファインダーを覗くと写真用の電球に照らされた蝶が、真上から
  • 細部の描写、普段目で見るのとは異なった状態の蝶が眼前に広がる.
  • レンズを覗いた時の、視覚的な、
  • 父が、覗いてごらん、という時には、すでにシャッターを切る準備が出来ているのである.
  • 父のシャッターを切る指の動きの描写.青い指先で切られるシャッター.
  • 父がシャッターを切ると、かしゃという乾いた音が響いた.父は、これで蝶は生き返ったのだ.と言った.
  • 一枚撮り終えると、標本は複写台から取り除かれ、別の標本が同じ場所に配置された、それは小夜の仕事であり、そのたびに父は同じ作業を繰り返し、同じ回数だけ小夜はファインダーを覗いた.
  • 標本が三個ある時は、父は三度シャッターを切り、十個ある時は十回シャッターを切った.小夜はその回数だけ、標本を入れ替え、同じ回数だけファインダーを覗いた.それは、前の週末に殺害された蝶の数であった.

 

撮影された蝶の標本は、茶の間の隅に並べて置かれた、翌日の焼却を待つためであった.

 

毎週末の作業は、滞りなく、

 

 

小夜、父、座敷から茶の間へと移動.場を移しての会話、対話.

父は、「小夜、写真と絵はどこが違うか分かるか?」と小夜に聞いた.小夜は、絵など見たこともなかったし、その質問がどのような意味を持つのかも分からなかった.小夜は、口を一文字に強く閉じ、目だけをくりくりとさせながら顔を紅潮させながら微笑んだ.小夜が笑う時はいつもそのようであり、声を出して笑うことはなかった.小夜の父も声を出さずに笑った.小夜の母は、台所で二人のために冷えた果物を用意していた.電球は部屋を暑くしたので、二人は汗をかいて作業をしていた.温度の上昇はインクの匂いを部屋中に充満させていた.

小夜は、父と母と三人で食べたかったが、母が準備した冷えた果物は、小夜と父の二人で食べた.

二人が茶の間で、果物を食べている間に、母は座敷に布団を敷き、小夜は食べ終わると一人で布団に入った.

小夜が布団に入った後、父と母が何をしているのか、小夜には分らなかった.

 

週末は、このようなことの繰り返しであったが、このようなことでさえ、小夜にとってはとてもうれしく、小夜は週末の訪れを楽しみに待っていた.

 

 

写真に撮られた蝶の標本は、茶の間の隅に置かれ、翌朝の焼却を待っていた.

その日に捕獲された蝶は、展翅板に虫ピンで固定されたまま裏口に置かれ、一週間後に、標本にされるために乾燥された.

 

週末の夜だけは、新しい蝶の死骸と古い蝶の死骸が小夜の家に置かれ、それ以外の日は、新しく展翅板に架けられた蝶だけが小夜の家にあった.一週間の乾燥の時を経て標本にされ、写真を撮られ、その翌日焼却されるためであった.

即ち、小夜の家には常に蝶の死骸が置かれていた.

 

深夜の静けさの中、かさかさという音が聞こえた.何かが何かを揺らし、何かと何かが擦れ合っているようだった.

季節が失われた集落においては、すべてが単調で退屈なものでしかなかったが、蝶の死骸だけが、一週ごとに新しくなった.

 

 

 

蝶、標本、焼却.

 

月曜の朝、父が出かけた後、母と小夜は撮影が終わった標本を、裏庭の焚火炉で燃やした.焚火炉は、蝶の標本を焼くためだけにあった.それ以外に用いられたことは一度もなかった.

  • 焚火炉は、当時の小夜の体躯で、頭部ほどの大きさの丸みを帯びた石が、円形に並べられただけの単純なものであった.焚火炉の内径は当時の小夜の歩幅で一歩、小夜がしゃがむとすっぽりとおさまる程度であった.
  • 小夜と母は、昨晩作られたばかりの標本、それは台紙に一本の虫ピンで蝶が固定されていた、台紙のまま焚火炉の中に並べた.
  • 母が、丸めた紙に火をつけて焚火炉に入れると、先ず台紙に火が点き、火は外側から回り、そして蝶の死骸に移った.
  • 蝶が燃える状況の記述.
  • 一筋の煙が立ち上った.最初は細く、次第に太くなった.太くなると、煙の白は薄く希薄になった.
  • 煙は、地面に近いところでは直線的で、色も白かったが、上の方に行くにつれて、ふらふらと、くねくねと乱れて、右に左に振られながら、それでも上方に向かって行った.高くまで上がると、上空の風は地上とは異なり、があるのだろうか、煙は広げられ、面として上空を流れていった.
  • 母は、表情なく、上空を、消えゆく煙を見つめていた.
  • 小夜と母は、焚火炉に薄く積もった灰の中から虫ピンを拾い、丁寧に布で拭いて、元の黒い木箱に戻した.
  • 焚火炉の中に薄く積もった灰は、手ですくって焚火炉の周りに撒いた.それは毎週行われたので、焚火炉の周りには灰が広がり、他の箇所とは色が若干異なっていた.即ち、薄い灰色と濃い灰色、斑.
  • 小夜は、蝶は、空に昇る煙と、地面に積もる灰に分かれたのだと思った.

 

 

 

小夜、虫ピン、刺し傷、分け入るもの.

 

今では小夜は、蝶を展翅する役目を担っていた.

  • その夜も、小夜と父は二人で、遅い時間まで標本を作っていた.母は、やはり台所で水仕事をしていた.蛇口から水の出る音
  • いつものように、列車の走る音が聞こえ、警笛、伴い振動が小夜の家にも訪れた.
  • 小夜が、展翅板に虫ピンで蝶を固定していた時、ひときわ大きな警笛、振動がその振幅を変えた.小刻みに、強く、揺らした.
  • 小夜は手元を狂わせ、虫ピンの針先を自分の指先に刺してしまった.小夜は右利きであるので、右手に針をもち、左手指先に刺した.
  • 小夜は小さな声で「いたい. 」と言った.瞬間的な痛みに相応しい声である.
  • 指先には、小さな穴があき、うっすらと血が滲んでいた.
  • 小夜が傷口を覗き込もうとすると、台所で水仕事をしていた母は、小夜の傍らに来て、覗いてはいけない.と言って、小夜の指先を口に含んで優しく血を吸い取った.
  • 彼女の舌は、二つに分かれてはいなかった.
  • しかし母の舌の動きは、徐々にその性急さを増した.母は血とは別の何かを吸い取ろうとしているようだった.
  • 小夜はそんな母の姿を見て怖いと思った.
  • 小夜は、ちくっという痛みと共に、何かが入り込み、そして何かとすれ違ったと感じた.何が、何処から、何処へと訪れたのかは分からなかったが.
  • この、入り込む、すれ違うという感覚は、その後事あるごとに小夜に訪れた.

小夜の母は、優しく微笑みながら、小夜に「もう大丈夫だから. 」と言った.

小夜は、大好きな母の笑顔を見て安心して笑った.小夜の頬は

 

しかし、母のそのような行為は、罪と定められた.

 

 

この時から、小夜の体内に閉じ込められた振動が、徐々に小夜に影響を与え始めた.

即ち、かさかさと何かを揺らすような音、何か決して固くはないが、何か、薄い何かが、何か別の、本来共にあるべきではないが、いずれは共にあらざるを得ないような何かと、擦れ合うような音.

 

 

 

小夜、母、対話.

 

小夜の母は、小夜と話をするときはいつも同じようだった.

先ずしゃがみ、小夜の目の高さに自分の目の高さを合わせた.優しく微笑み、そしてゆっくりと語りかけた.ゆっくりと語りかけながら、自分の人差し指を、或いは中指を、小夜の手のひら、頬、時には額に当てて、線を描くようにゆっくりと動かした.そしてまるで今描いたものを消すかのように手の平で優しく擦った.その行為の意味は、彼女にしか分からないものであった.言葉と同じリズムで.

小夜は、くすぐったかったが、大好きな母にそのようにされることがとてもうれしかった.小夜は、自分も大きくなって、お母さんになったら、そのようにしたいと思った.

母の身体からは、いつも良い香りがしていた.

小夜の母の声は、彼女の声に関する記述.

彼女の口から出た言葉は、声は、二度と彼女の口に戻ることはなかった.どこにもとどまることなく、行列する集落の行列の中に、空に、煙のように、失われていった.散っていった.

 

 

 

 

 

小夜、小さな夜.

 

ある時、小夜は母に、「あたしの なまえは どうして さよ っていうの. 」と聞いた.

母は、いつものように、優しく微笑みながら、「小夜、小夜の夜は、まだ、ちっちゃいから、小夜っていうのよ. 」と答えた.いつものように、小夜の手を取り、自分の人差し指を小夜の手のひらの上に当てて、何かを描くようにしながら.

しかし、その時だけは、母の手の動きはいつもと異なった.両てのひらで、小夜の手を包むようにして、

小夜には、母の言っていることが理解できなかったが、大好きな母とそのように会話することがとてもうれしかった.小夜は、いつものように顔を真っ赤に染めて、いつものように良い香りを発する母の顔を見て笑った.

母の顔からは、微笑は消えていた. 

 

 

 

 

小夜、裏庭での一人遊び、大地、

 

昼間、小夜の母は家を不在にすることも多かった.そんな時は、小夜は裏庭で一人で遊んでいた.

丁度焚火炉のあたりで、※灰を撒いたあたりで、その辺りは、小夜は地面に何かを描いた.それは多くの子供がするように、意味のない線や図形のようなものがほとんどであった.

小夜は、地面に細い指先で線を描き、手のひらでこすって消した.繰り返した

それはまるで、母と会話するときに、母が小夜の手のひらや、頬、額に、指先でするようであった.

小夜の指先の動きに、大地は快楽を覚えた.大地は小夜を愛した.

 

 

 

小夜、愛のダンスの始まりだ.しかし、まだだ、但し、そう遠くはない.しかし、それほど近くもない.

 

 

 

 

[ 初原、行列する集落 ] に伝わる言い伝え.

 

ある時、母は小夜に、このあたりに昔から伝わる言い伝えを聞かせた.いつものように、しゃがんで小夜の目と自分の目の高さを合わせ、小夜の手を取り、小夜の手のひらに自分の指先を当てて何かを描くようにしながら.

  • 遠い昔、このあたりは、湖だった事.
  • 湖は決して大きくはなかったが ( むしろ小さく、小さかったので誰にも知られず、)、湖の水は透明で美しく、底が見えないほど深かった事.
  • このあたりに住む人々は、誰かに知られることもなく、誰をも知ることもなく、静かに暮らしていた事.
  • このあたりに住む人々は、他の人々とは少し違っていた事.
  • このあたりに住む人々は、他の人々が知らないことを知っていた事.それは、本当は知ってはいけないことだった事.
  • それを快く思わない人たちがいた事.
  • 快く思わない人たちは、その人たちを滅ぼしてしまおうと思った事.
  • 快く思わない人たちは、天の門を開けて、大雨を降らせた事.註2 ・→
  • その雨はとても強く、何日も激しく降り続いたので、近くの山々は崩れ、土砂が湖に流れ込み、湖は濁ってしまった事.
  • 雨は、休むことなくさらに降り続いたので、湖の水を溢れさせた事.
  • このあたりに住む人々は、逃げ場を失い、溢れる水に飲み込まれそうになった時、荒れ狂う水に乗って、何処からかたくさんの蛇がやって来た事.
  • その蛇の数は、無数ではなかったが、数えきれないほどであった事.
  • 蛇は絡み合って、一床の筏を形作った事.
  • 溺れ死にそうだった人たちは、その筏に乗った事.
  • その筏は、とても強靭で、何人乗っても引きちぎれなかった事.
  • 筏に乗った人たちは、水の届かない、何処か知らない高台まで運ばれて命を救われたこと.[ 蛇潜り、漆芸の家 ] の言い伝えと続く・→
  • そして、筏に乗り遅れた人たちのために、蛇は絡み合って、どこまでも伸びる一本の道を形作った事.
  • その道はどこまで伸びているのか分からないほどの長さで、取り残された人たちは、道に上がり命を救われた事.
  • そして蛇は、溢れる水を一気に飲み干し、洪水は治まって乾いた土地となり、蛇は死んでしまった事.
  • 生き延びた人たちは、道の両側に家を建て、現在に至っている事.
  • 地面に浸み込んだ水は、浸みだして川に、浸みだしてそのような川であるので、川
  • 地面に浸みこんだ水は、時折表面に浸み出してくる事.地面の湿り気については事前に要記述.
  • それは、集落の人たちが、が寝静まった後に、誰にも気づかれないように、
  • 洪水で、このあたりに住んでいた人たちは二つに分かれたけれども、

母は、これは昔から伝わる言い伝えで、嘘か本当かも分からない.誰かの作り話かも知れない.と言って笑った.

小夜はまだ蛇を知らなかった.

 

 

やはり、川では、少年はいつも魚釣りをしていた.

少年はいつも背の高い叢に潜むようにしていたので、いるのかいないのか分からないこともあったが、時折竿の先が草むらから飛び出すので、少年がそこにいることが分かった.いないこともあるのかも知れなかったが、小夜が見た時には、少年はいつも同じ場所で魚釣りをしていた.

小夜は、少年が何処から来るのかも、どこに帰るのかも知らなかった.

 

母が留守の時、小夜は少年を近くで見ていたと思ったので、草地を走り抜けて少年の近くまで行った.( 父からは、一人で川に行ってはいけない.と言われていた )  小夜はばたばたと、音を立てて草地を走ったので、少年は小夜の方を向き、口に人差し指を立てて “しっー” と言った.小夜も少年と同じように、口に人差し指を立てて “しっー” と言った.小夜は顔を真っ赤に染めて少年の顔を見て笑ったので、少年も小夜の顔を見て笑った.二人とも声を出さずに、小夜は少年の顔を真正面から見たが、少年は口元に指を立てていたので、顔の一部しか見えなかった.

 

小夜、魚釣りの少年.

 

小夜は、母が不在の時は、何度も少年のもとを訪れた.

  • 小夜は、足音が出ないように、注意深く、足音を忍ばせて、草地を抜け少年に近づいた.
  • 今では、少年のすぐ隣に、少年と同じように地面に座って、少年と同じように水面を漂う浮きを見つめていた.
  • 釣り糸は、手前の浅瀬ではなく、向こう側に設置された場所、ひときわ背の高い樹木が密集して、明かりが遮られ、鬱蒼として、水が止まり、深さが分からないほど深く、川の流れから隔たりなく隔たれた場所
  • 少年は、両手で竿を握り、ほんの少し手を伸ばして、
  • 浮きの動きの描写
  • 魚を釣り上げる瞬間の描写→抗いの力学へと展開
  • 釣り上げられた魚は、太陽の光を浴びて輝いていた.魚の体表の色によって、銀色だったり、金色だったり、
  • いつも魚が釣れるわけではなかったが、釣れた時には、少年は魚を針から外し、魚に何か話しかけるようにして、魚を川に放した.少年はとても悲しそうな顔をしていた.
  • 魚は浅瀬で2、3度、体をするりと翻すと、体表は光り、水の止まった、深さも分からない場所へと消えていった.
  • 小夜は、せっかく釣った魚を逃がす理由が分からなかった.小夜と父は、捕獲した蝶をその場で殺し、家に持ち帰り、標本を作り、そして焼却.

 

 

小夜、魚釣り.

  • ある時、少年は小夜に釣竿を持たす.
  • 小夜は、竿を受け取りいつも少年が糸を垂らす水の止まった場所へと、
  • 小夜の腕は少年よりも短く、狙った場所まで竿が届かない.小夜の体躯と少年の体躯の比較図、小夜と母、小夜と塗師の女、小夜とホテルの女中の体躯の比較図制作の事.
  • 少年は手添える.
  • 小夜の体と少年の体が触れる.
  • 浮きがわずかな動きを示す.
  • 浮きの動きは、深い水中の動きの表れでもある.端的に、として語られる言説でもある.
  • 一気に、大きく、浮きは水中に引き込まれる.
  • 魚の抗い.水中で行われる抗い.
  • 水中と水の外、陸地、異なった区画の連続性.
  • 少年は、小夜の手に自分の手を添えた.
  • 小夜の手と少年の手が触れた.
  • 竿を伝わる振動.魚が生きているという実感.
  • 生きているものが竿という線的な、それは構造物にどのように影響を与え、小夜の手に伝わる竿の震え.
  • 輪郭の滲んだ町、小夜の部屋、小夜が声に触れる箇所へと展開.
  • 魚の抗い、輪郭の滲んだ町の、特に [ 蛇の棲み家 ] における小夜の抗いへと展開.
  • 結局魚は逃げ、釣り糸につけられた針だけが、宙に舞った.
  • 小夜と少年は笑う.
  • 二人は共通して、口を開かず、声も出さずに、目で笑う.
  • 小夜も少年も顔を真っ赤にして、互いに見合っていた.

それは川べりの、ひときわ高くなった叢で行われた.

 

 

 

 

小夜、魚釣りの少年、釣り針、傷.

 

ある時、少年は、針に餌をつける時、小さな声で、「 いたいっ 」と言った.釣り針を指先に刺してしまったのだ.
小夜は、母が小夜にしたように、少年の手を取り、うっすらと血が滲んだ指先を自分の口に含んで、少年の指先に滲む血を吸い取った.小夜の舌は先端が二つに分かれていた.
小夜は少年に、「これで もう だいじょうぶだから. 」、「のぞいちゃ だめよ」と言った.そして「あたしは さよ っていうの.まだ あたしの よる は ちっちゃいから さよ って いうの.  」と言った.小夜は、母が小夜に言ったことを一気に繰り返した.
魚釣りの少年は、驚き、同時に照れ臭かったので顔を真っ赤にして小夜の顔を見た.小夜も顔を真っ赤にして、丸く、ほぼ正円に開かれた眼で少年を見つめていた.
この時、小夜は少年の顔のすべてを見たのだ.

 

 

 

小夜、魚釣りの少年、逢瀬.

 

母が不在の時には、小夜はいつも少年の横にしゃがんで少年と一緒にいた.小夜は、少年の傍にいることがとてもうれしかったし、少年も小夜が来ることを楽しみにしていた.
ひときわ高く茂る草は二人の姿を隠すことに適していた.
少年がいつものように、釣り上げた魚に何か話しかけるようにして魚を川に放した時、小夜は少年に聞いた. 「どうして さかな を にがすの.あたしは おとうさんと ちょうをつかまえて ころすの. 」「あたしは ひょうほんを つくって おかあさんと やくの. 」
少年はしばらく俯いてから、小夜の方を向いて何かを言おうとした.小夜は少年の言葉を待った.少年の顔は、とても寂しそうに見えた.
遠くで列車の走る音が聞こえた.振動で僅かに地面が揺れた.その振動は母が戻る時刻を告げていた。
小夜は、父から一人で行ってはいけない、と言われていたので、少年に「 また、くるから.また、くるからね. 」と言うと、草地を走って家へと向かった.

 

小夜の父も、母も、この集落の人たち皆が、このような時間がいつまでも続くことを願ったが、その願いさえもが.

 

 

小夜、一体そこに誰がいるというのだ.だから、一人で川に行ってはいけないと言ったではないか.

小夜、一体この集落に誰が住んでいるというのだ.小夜、この集落で、誰かを見たのか、誰と会ったというのだ.

 

 

 

 

深夜の警笛、父の外出.

 

小夜の父は、 毎夜、深夜の警笛を合図に、布団から抜け出し、裏口から裏庭の小屋へと向かった.

  • 小夜は、深夜父がいなくなることを知っていた.
  • 焚火炉の辺りでは、ずるずるというくぐもった音がしていた.
  • 小夜の父は、焚火炉のあたりを見廻すと、忌々しそうに「もう、うんざりだ. 」と小声で呟くと、小屋に入っていった.
  • 何かが、彼の気を滅入らせていた.
  • 父が小屋に入った後も、ずるずるという音は鳴り響いていた.父の事など意にも介さず、あたかも、あざ笑うかのようでもあった.

 

 

 

小夜、虫ピンの窃盗.

 

盗んだのは、夜だ.小夜は赤い玉のついた虫ピンを盗むために裏口へと向かった.父は、裏庭の小屋、母は座敷の布団の中.

  • 父が裏庭の小屋へと向かったのを確認した小夜は、裏口で乾燥されている展翅中の蝶、蝶には何本もの虫ピンがつけられていた、
  • 道に立つ外灯の明かりは、裏口まで回り込み、展翅中の蝶とともに、虫ピンをもうっすらと照らし出していた.
  • うす暗闇においては、赤の玉は何か濁ったように、寧ろ、青の玉がついた針が鮮やかに見えた.プルキニエ効果
  • 咄嗟の判断であった.小夜は、赤の玉のついた針ではなく、青の玉のついた針を一本、展翅板から外し、そのまま焚火炉へと走り、一つの石の下に隠した.
  • 小夜は、誰にも気づかれずに済んだと思ったが、父も母もその一部始終を見ていた.
  • 父は、物置の中で、「もう、うんざりだ. 」と呟き、母は、布団の中で微笑んでいた.

 

※小夜は、その時、初原の夜を経験した.

初原の夜は、静寂によって支配されていたが、その静寂は、彼が最初の五日間で創造した静寂・→とは異なっていた.

遠くで列車の走る音が聞こえた.地面を揺れが伝わった.

初原、帰省でその夜を回想.

 

 

 

 

母の外出.

小夜、賑やかなメモに記.

 

夜の深まりが、その限度を超えるか越えないかの瀬戸際、均衡、母も布団を抜け出した.均衡は、母の外出によって破壊された.

母は、裏口から抜け出すと、小屋の脇を通り過ぎ、草地を抜け、川へと向かった.小屋の中には、夫がいるにも拘らず、彼女は気にする素振りさえ見せずに足早に川へと向かったのだ.

彼女が向かったのは、いつも少年が魚釣りをしている場所であった.草が人の姿を隠すだけの高さを保ちながら、水が止まり、高い樹木が大きく枝を伸ばし、鬱蒼としたあの場所である.

そんなことなど、小夜は知る由もなかった.

小夜、本当に知らなかったのか、欺きの系譜を継ぐ者よ.

 

 

 

 

裏庭の小屋、プレゼント.

 

ある月曜日、母と小夜が裏庭の焚火炉で蝶の標本を焼いている時、小夜は、小屋を指さして母に尋ねた.「おとうさんは よる いつも ここで なにをしているの. 」 母は答えた.「小夜、小夜がもっと大きくなった時のために、小夜へのプレゼントを準備しているのよ. 」 そして、このように付け加えた. 「小夜、小夜は一人で中に入っちゃだめよ.戻って来れなくなるからね.お母さんとの約束だからね. 」母は、いつものように、小夜の額に自分の人差し指を当てて、何かを描くようにして指を動かした.小夜は、くすぐったかったので笑った.母も笑った.

小夜は、父が自分のためにプレゼントを準備していることがとてもうれしかったので、その日から、これまで以上に小屋の事が気になった.

 

 

 

 

小夜、小屋への侵入、幻視、母の罪.

  • ある日、小夜は、小屋の扉が僅かに開いているのに気付いた.
  • 小夜は、父が自分のために準備しているというプレゼントの事がとても気になっていたので、母が近くにいないことを確かめて、隙間から小屋の中に入った.
  • 中は薄暗く、とても狭かった.
  • 二つの香りがあった.一つは鼻を突くようなつんとした香り、一つは、心地よい香り.二つとも、小夜が初めて嗅ぐ匂いであった.
  • テーブルが一つあり、テーブルの上には、何かが書かれた小さな紙が積み重なっており、すべて青のインクで書かれていた.
  • 天井からは透明のシートがたくさん吊り下げられていて、一枚のシートに一頭の蝶が写っていた.
  • 遠くで列車の走る音、伴い振動.シート、揺れる、擦れ合う音、シートの材質、がかさかさと揺れた.
  • 振動は徐々に大きくなり、シートは大きく揺れ始め、シート同士が擦れ合い、
  • つんとした匂いは衰え、心地よい香りが小夜を捉えた時、大きく揺れるシートから次々と蝶が抜け出し、小屋中に
  • シートから抜け出したたくさんの蝶は、部屋を四方八方に飛翔し、飛翔するごとに狭い部屋はどんどん広がり、小夜の見知らぬ風景が広がっていた.
  • そこは、外だった.
  • 地面にしゃがむ少女の姿があったが、後ろ姿だったので、小夜には誰か分からなかった.
  • 少女は、指先で地面に何か描いているようだった.
  • 描かれているものは、線であったり、何か図形のようなものであった.
  • それらの線は、まるで生きているかのように、地面を動き始めた.
  • 太い線は、ずるずると音を立てて、ゆっくりと、細い線は、するすると機敏に動き始めた.
  • それらの線は、徐々に一カ所に集まり、絡み合い、一つの塊を形作った.
  • 塊の表面も、内側も、太い線と細い線が、くねくねと絡み合いながら動いていた.※部分と全体は同期して、
  • 線の塊は、転がるように徐々に少女に近づき、一気に少女を飲み込もうとした.
  • その時、小夜の視界の外から、小夜の母が飛び込んできて、少女を抱きすくめた.
  • 線の塊は、ばらばらになって地面の上に崩れ落ち、バラバラになった線はするすると地面を這い、どこかに消えていった.

母のそのような行為は罪と定められた.

  • 涼しい風が小屋の中に吹き込んで来た.小夜は自分の名前を呼ぶ母の声を聞いた.「小夜、小夜、何処にいるの. 」母に一人で入ってはいけないと言われていたので、小夜は慌てて小屋を飛び出した.
  • 外は、いつもの裏庭だった.
  • 小夜は小屋から戻って来れたので、うれしかったし、もう二度と入らないと思った.小夜は、この出来事をとても怖いと思った.
  • 小夜は、母に見つからなかったので安心した.

母は、その一部始終を見ていた.

 

 

母、最期の夜.

 

その日の夜は、いつものように訪れたし、列車の警笛もいつものようであったし、訪れる振動もいつものようであった.

但し、深夜の足音だけは、確かにいつものようではあったが、多くの乱れが生じていた.が、すぐに修復された.

その夜、母は、隣で眠る小夜を強く抱きしめた.小夜の母は、小夜を我が子のように愛してはいたが、但し、それ以上に愛してはいなかった.

父は、その夜は裏庭の小屋へは行かなかった.小夜を抱きしめる母の姿を目に焼き付けた.しかし、父のそのような行為は、罪とは定められなかった.

母は、その夜もいつもの夜と同じように、裏口から抜け出ると小屋の脇を通り、川へと向かった.そして母は戻ることはなかった.

彼女が破壊した均衡は、修復されず、破壊されたままになっていた.初原の穏やかな、表面的とはいえ、局面、その相に大きな転機をもたらす.

父は、一人眠る小夜を見続けて朝を迎えた.

 

 

 

 

母の消失、不在、すり替わった母.

 

朝、小夜が目覚めると、優しかった母の代わりに別の母がいた.

父はいつものように朝食を取り、まるで何もなかったかのようであったので、小夜は母の事を聞くことができなかった.

母のすり替わり以外は、これまでと何も変わらず、小夜は、お父さんも変わってしまったのかとも思った.

小夜は、お母さんは一人で小屋に入ったので、戻って来れなくなってしまったのだと思った.小夜はとても悲しくなった.

 

優しかった母がいなくなってからも、週末の父との蝶取りは継続して行われた.標本づくりも標本の焼却もこれまでと同様に行われた.

母がすり替わっただけで、すべてはこれまで通り繰り返された.

 

小夜は、裏庭で遊びながら、いつも少年が魚釣りをしている背の高い叢のあたりを見ていた.

小夜は、あの時、少年が言おうとしたことが気になっていた.

彼は、小夜に何かを言おうとしたのだ.

少年の悲しそうか顔が、頭から離れなかった.

 

 

父との蝶取りも、その回数を重ねたが、小夜は依然として、一頭の蝶も捕獲することができなかった.

但し、標本づくりにおいては、重要な役割を担った.既に展翅は小夜ひとりで行われ、今では、蝶を固定する台紙を必要な大きさに切り、乾燥した蝶を虫ピンで台紙に固定する作業を受け持った.

今や、蝶の標本は、小夜ひとりによって完成させられようとしていた.

但し、小夜はいまだ蝶を捕らえることはできなかったので、蝶の殺害、台紙への文字の書き込みと撮影はこれまで通り父が行った. 

 

 

 

 

小夜、切り傷、ふしだらな血.

  • ある週末の夜、いつもの週末のように父との標本づくり.遠くで列車の走る音、振動、その揺れには複雑さはなかったが、単純な強さ
  • 小夜は、白い台紙を切っていた時、カッターナイフの刃先で指先を切ってしまった.
  • 小夜は、「 痛いっ 」と声を出した.刺し傷とは異なった痛みの記述.声の違いの記述.
  • 傷は深く、長く、線的で、傷口には血が溢れ出し、血は白い台紙の上に、畳の上にも滴り落ちた.
  • それを見たすり替わった母は、台所から大きく甲高い声を上げた.「小夜、お前はなんてことをするんだい、大切な血だよ、」 
  • すり替わった母は、小夜の傍らに近づくと小夜の指を咥えこんだ.大きく開かれた眼は天井を見上げ、血の滴る小夜の指を深く口に含み、大きく吸い上げていた.身体は畳の上に長く伸ばされ、もぞもぞと動いていた.
  • そして、すり替わった母は、四つん這いになり、畳に滴り落ちた血を舐め上げた.すり替わった母の舌先は二つに分かれ、忙しく出入りしていた.
  • 小夜はとても怖かったので、父に助けてほしかったが、父はすり替わった母の姿を見つめるだけであった.

    小夜は、父が助けてくれなかったので、とても悲しかったし、父が嫌いになった.

 

 

血の痕は、点々と大小いくつものしみとなって座敷の畳に残った.しみは黒く変色して、いつまでも湿っていた.

このことがあってから、徴は猛威を振るい始めた.

小夜の優しかった母が破壊した均衡との関係.徴は猛威を振るいやすかった.

 

 

父への信頼が失われた後も、週末の蝶取りは小夜と父の二人で続けられた.標本づくりも、蝶の標本も同様に行われた.

何も変わってはいなかったのだ.優しかった母の消失と不在、母のすり替わりはこの家に何の変化ももたらさなかった.

変わりようのない営みが連綿と続いていた.

 

 

 

 

小夜、川、少年の不在、蛇.

 

その日は、すり替わった母が不在だったので、小夜は、魚釣りの少年のもとへと向かった.少年はいなかったが、蛇が一匹いた.

 

小夜は、少年に会いたかったし、彼があの時言おうとした言葉を聞きたかった.
小夜は、足音をひそめて、いつも少年がしゃがんでいる叢へと近づいた.少年はいなかった.
その日は風もなく、あたりはしんと静まり返っていた.
かさかさという音が聞こえた.それは断続的で、しばらく聞こえたかと思ったら、止み、また、聞こえた.
川の向こう岸、背の高い樹木が大きく枝を広げ、葉が密集して、鬱蒼として、光が遮られ、薄暗いあたり、川が急にその半径を縮め、向こう岸が抉られ、水が止まっているあたりから、その音は聞こえていた.
枝に蛇が絡みつき、蛇が動くたびに枝が揺れて、葉が擦れ合って音を出していた.蛇はくねくねと動き、頭をもたげて、あちらこちらを見ていた.
小夜は、蛇を見るのは初めてだったが、それが蛇であると分かった.以前母が語ってくれた、初原に伝わる言い伝えを思い出した.
小夜は蛇がとても怖いと思った.蛇に対する人間の感情一般の記述.
小夜の感覚は、次第に研ぎ澄まされてゆき、小夜は、落ち着きなくあたりを見廻し始めた.他にも蛇がいるかと思ったのだ.
小夜は、怖くて動けなくなってしまった.
小夜は、草地を一気に駆け抜けて、(小夜は、ああちらこちらに蛇が隠れていて、追いかけられるような気がしたので、) 、家の裏口までたどり着いた.

 

 

 

 

座敷、すり替わった母、自慰.

  • 小夜が、裏口から家に入ろうとしたとき、中からかさかさと音が聞こえた.何かと何かが擦れ合い、それは薄く、決して固くはなく、決して柔らかくもない何かが.
  • 小夜はさっき川で見た蛇が、家の中にいるのかと思い、怖くなって玄関にまわり ( 普段、小夜は裏口から出入りをし、玄関を使うことはなかった ) 、中に入り、茶の間を見廻したが、蛇はいなかった.
  • 小夜は茶の間に入り、僅かに開いた襖の隙間から座敷を覗くと、すり替わった母が衣服を着たまま畳に横たわり、細く長い肢体をくねくねと動かしていた.
  • 衣服と衣服が、衣服と畳が擦れる音.かさかさ、ずるずる、
  • そうしているうちに、するすると衣服の中から、細長い躯体が抜け出してきた.すり替わった母の身体は白かったが、徐々に赤みを帯びてきた.蛇の脱皮のイメージ
  • すり替わった母の二本の腕は、それぞれ別の場所を這いずり回って、足の付け根へと向かって行ったが、途中で、別の場所へとするりと方向を変えた.
  • 両手は体中を這いずり回り、次第に足の付け根のあたりで一つになり、体全体が一本の線のようになった.のけぞる動きの記述
  • 薄暗い座敷で、線が蠢いていた.
  • すり替わった母は、畳に残った小夜の血の痕を長い舌で舐めていた.やはり、舌は、その先が二つに分かれ、忙しそうに何度も口から出たり入ったりしていた.口元からは、しゅーしゅーという音が漏れていた.

 

すり替わった母の行為は、自慰と呼ばれ、自身で、自身の身体上で、自身の快楽を求める行為であることを小夜が知るには、まだ多くの日数を必要とした.

 

 

 

 

逢瀬の中断、指遊び、大地.

 

このことがあってから、小夜は、裏庭で一人で過ごすことが多くなった.少年に会いたかったけれど、蛇が怖かったので行けなかったし、すり替わった母の目も怖かった.小夜は、すり替わった母にいつも見られているような気がしていた.
小夜は、裏庭から少年が魚釣りをしている場所を見ていた.竿が草むらから立ち上がるたびに少年の事が思い出された.
裏庭の物置の脇、焚火炉の傍ら、丁度標本の灰を撒くあたりで小夜は、地面に指先で線を描いた.直線であったり、それは突然円弧に変化し、小夜の細い指先は、地面に優しく触れ、そして小さな掌で擦って消し、また描いた.何かを描くと、何かが思い出された.優しかった母の顔、父の笑い顔、そして魚釣りの少年の顔が脳裏に浮かんだ.それらは具体的な形象をもって小夜の脳裏に現れた.彼は、あの時寂しそうな顔をして、何かを言おうとしたのだ.
小夜の指によって一度結ばれた多くの像は、小夜の脳裏で明瞭な輪郭を保ってはいたが、輪郭は次第に蛇の動きに置き換えられ、そしてすり替わった母の肢体のうねりに変化したので、小夜は、多くのものの形象の区別がつかなくなった.
細い指先で地面に何かを描いては、消し、また何かを描いては消し、暗くなるまで一人で繰り返した.

 

 

小夜は、常に大地と共にあったのだ.そして、大地は常に小夜と共にあった.

大地は小夜を愛したが、小夜はいまだ大地の事は知らなかった.

 

 

小夜は、あの時、魚釣りの少年が言おうとした言葉が気になっていた.あの寂しそうな顔が忘れられなかった.

小夜は少年に会いたかった.少年の隣に座り、一緒にいたかったのだ.

 

 

小夜の父は察知していた.

あまりにも長期にわたる単純な出来事の集積は、秩序にほころびを生じさせ、それにもまして、小夜の優しかった母が破壊した均衡が、徴は、その凶暴性を露わにし、決定済みの事項があまりにも多くなりすぎていたことを.

 

 

 

 

最後の蝶取り.

 

その日の風には一片の乾きもなかった.朝から湿った風が吹き、湿り気は徐々に粘着きへと変わった.

粘着きはあらゆるものから、あらゆる動きを取り去り、意味を際立たせたが、孤立も促した.いまだ意味は意味になっていなかったのだ.徴、標、連続せず、結ばれず、点的でしかなかった.逸脱が必要であった.

 

粘ついた風は、蝶の動きを鈍くした.
小夜の父は、小夜に僅かな目の動きで何かを伝えた.小夜と父の二者にしか理解しえない、何か特殊な会話に似たもので、それは、小夜と父の絆の領域に属するものであった.
小夜は、小夜の目で確かにその合図を受け止めた.
小夜はするすると、宙を舞う蛇の下に潜り込み、飛翔する蝶を指先で捕まえた.
小夜は、初めて蝶を捕獲したのだ.
小夜はいつも父がするように、蝶の腹部を圧迫して殺した. ( 蝶を捕獲した者だけが、殺害する権利を有するのだ. )

 

小夜はとてもうれしかったので、父を見て笑った.父は、小夜の笑顔を見て、悲しそうに笑った.水面を漂う浮きを見つめる魚釣りの少年の目には涙が溢れていた.彼はまだ子供なのだ.魚釣りの少年の向こう岸の樹上には、枝に細長い身体を巻き付けた蛇が、頭をもたげて小夜をじっと見ていた.すり替わった母は、家の座敷で、忙しく出入りする二つに分かれた舌先で小夜の血痕のしみを舐めていた.やはり口からは、しゅーしゅーという音が漏れていた.

 

 

 

 

最後の標本づくり.

  • その日の夜、小夜は初めて自分が捕獲した蝶の展翅を行った.これまでも展翅は行っていたが、それらは父が捕獲した蝶であった.
  • 小夜はとてもうれしかったので、何度も父の顔を見て、何度も笑った.
  • 小夜の目、瞼のない、くりくりした、ほぼ正円、
  • 父は、小夜の目を見つめて、吐き気をもよおす、嫌悪、
  • 父は小夜に、「一週間乾かしてから、標本にしよう. 」と言った.
  • 小夜は、自分が展翅した蝶を展翅板ごと裏口に置いた.
  • 草地の向こうからは、乾いた風が吹き込んでいた.

 

その夜も、これまでの夜と同じように訪れた.同じ時刻に列車が走り、同じ時刻に警笛が響き、僅かな振動も同じように訪れた.但し、深夜の足音だけは、小夜の家の前でいつもより多くの時間とどまった.が、やがて何もなかったように修復された.この日の足音の特殊性、話し声は.

裏庭の焚火炉の辺りからは、ずるずるとくぐもった音が聞こえていた.

その夜は、父は、深夜の警笛が鳴っても裏庭の小屋へは行かなかった.横で眠る小夜を朝まで見つめ続けていた.しかし、それは罪とは定められなかった.

すり替わった母は、茶の間に身を横たえ、僅かに開いた襖の隙間から小夜と父を見つめていた.

 

 

翌朝、小夜は、すり替わった母から、父方の家に引き取られると告げられた.

 

 

 

 

小夜の父、人、家にて、

 

小夜のいない家.小夜はすり替わった母と、小夜がこれから住むべき家へと向かい、父ひとり小夜の家に残された.そこは、小夜の家なのだ.

昨日、小夜が捕獲した蝶は、展翅板につけられたまま裏口に残されていた.

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  • 昨夜、小夜が展翅した蝶が裏口に残されていた.彼は、何か小夜の手のぬくもりが感じられるような気がしたが、父は触れた、そのようなものなど何も感じることはできなかった.それはそれでしかなかった.
  • 父は一週間の乾燥の後、一人で標本を作り、青い指先でシャッターを切った.かしゃっという乾いたシャッター音が細い道を駆け抜け、線状に伸びる細長い集落に響いた.道はすでに閉じられていたので、何の影響も受けない.
  • 深夜の行進は、行列は、
  • 深夜の列車、警笛、振動、やはり父は同じ時刻に裏口から小屋へと向かった.焚火炉のあたりではずるずるとした音が響いていた.焚火炉の石を一つ上げると、小夜が盗んだ青い頭のついた展翅用の虫ピンが隠されていた.父は、針先を指先に当てて、僅かに押し刺した.ちくっという痛みが走ったが、何かを想起することはなかった.その虫ピンは、小夜のものであり、その痛みは、だと思った.
  • 父は、小夜がこの集落に戻る日のために、虫ピンを石の下に戻した.決して遠くもなく、但し、それほど近くもない日のために.

 

焚火炉の周りでは、相変わらず、くぐもったような、ずるずるとした音が響いていた.

父は、小夜は今頃、あの斜面を、あの弾力性のある、強靭な横滑りの、斜面を登っているのだろうかと思った.

父は、「もう、うんざりだ. 」というと、いつものように小屋へと消えた.

 

小夜は、[ 蛇潜り ] へと向かったのだ.

 

 

 

 

蛇潜り、漆芸の家.

 

 

すり替わった母と小夜は、列車に乗って父方の家へと向かっていた.小夜は、列車を見るのも、列車に乗るのも初めてであった.

明けることのない夜が、途切れることのないまま、夜の持続、不連続 車窓の向こう側に広がっていた.

窓の外にはあかりひとつ見えず、他の列車とすれ違うこともなかった.列車には小夜とすり替わった母しか乗車していなかった.

いくつもの駅で列車は止まり、その都度、左、または右の扉が開いた.ずっと左の扉ばかりが開いたと思ったら、突然右の扉が開いた.扉が開くたびに夜が流れ込み、車内には夜が充満していた.「このあたりの地形は複雑だから、おかしなことになってしまう.このあたりはすべてがこんな風だ. 」とすり替わった母は言った.ホームに停車しても乗車するものは一人もなく、すり替わった母は、「どうせ誰も乗って来やしないんだよ. 」と言って声を出して笑った.

すり替わった母の笑い声は甲高く、鋭く、急峻で、車内を左、右、上、下と反響しながら一気に先頭と後尾を繋いだ.閉じられたのだ.

夜を見つめるすり替わった母の顔が、車窓に映し出されていた.彼女は瞬きをしなかった.小夜も瞬きをしなかった.

 

 

 

 

[ 蛇潜り ] への到着.

 

列車の振動の振幅が変わった.列車が小刻みに震え、眠りについていた小夜は目を覚ました.いまだ夜は明けていなかった.

無人のホームに降り立ったすり替わった母と小夜は、遠い彼方の高みに見えるいくつかの灯を見ていた.それらは光っているというよりは、滲んでいるように思えた.空の高いところには月が一つ、そしていくつかの灯、それらいくつかの灯りは、月とさほど変わらない高さにあるようにも思えた.ホームに立つ駅名標には「 蛇潜り 」、その下には平仮名で「 へびもぐり 」と書かれていた.

すり替わった母と小夜は、虚空に揺らぐそれらの灯りを目指して歩き始めた.道はなく、あるのかも知れなかったが、夜だったので分からなかった.二人は緩やかに上方へと伸びる斜面を歩いた.地面は弾力性があって、力を込めて足を踏み込むと、同じ力で跳ね返された.斜面の湿り気について記述.

すり替わった母は、この地面の下には、たくさんの蛇がうじゃうじゃと潜り込んでいて、そいつらがこの辺り一帯を台無しにしてしまった.土中に潜り込んだ蛇が、木や草の根を食い荒らし、家も道も蛇の中に飲み込まれて、何もかもがなくなってしまった.と言った.すり替わった母は、このあたりの事を良く知っているようだった.

すり替わった母に手を引かれて、小夜は時折駅のホームを振り返った.斜面を登るにつれて常夜灯に照らされた駅名標は徐々に小さくなっていったが、「 蛇潜り 」( へびもぐり ) の文字だけははっきりと読み取れた.小夜は、[ 蛇潜り ( へびもぐり ) ] に到着したのだ.

二人を運んできた列車は、ゆっくりと動き出すと、その先にあるトンネルに消えていった.小夜は、月明かりの下で、地面が波打ったように思った.

即ち、小夜は、[ 蛇潜り ] へと到着したのだ.

 

即ち、即ち、即ち、即ち、即ち、即ち、即ち、転じて、転じて、転じて、転じて、即ち、即ち、即ち、即ち、即ち、即ち、即ち、蛇の蜷局は解かれ?、即ち、過程なき帰結.

欺きと、横滑りは、彼でさえも切り離すことはできなかったのだ.彼は、自分が創造した各々についての知識が欠如していたのだ.

即ち、横滑りの大地へと斜面へと、小夜は到着したのだ.

 

 

 

小夜、[ 蛇潜り、漆芸の家 ] への入場.

 

斜面を登り詰めると、硬い地面に変わった.小夜がこれから住むべき場所へと到着したのだった.即ち、[ 蛇潜り ].

左右にどこまでも伸びるかのような黒々とした建物が目の前に聳え立ち、上の方にはいくつかの灯が燈っていた.それらは、二人が目指して歩いた明りであった.
建物は、二人の行く手を阻むかのように立ち塞がっていたが、建物の一階の中央部は通路になっていて、二人はくぐるようにして ( 天井はとても低かったので ) 向こう側に抜けると、地面は平面的な広がりを見せ、いくつもの建屋が立っていた.
すり替わった母は、ここが、お前が、これから住む場所だ.と言った.即ち、[ 蛇潜り] .

その家の女主人が二人を出迎えた.

 

その夜は、まだ小夜の部屋の準備が出来ていないという理由で、小夜は女主人の居宅の二階で先に床に就いた.部屋には、仄かな香りが漂っていた.初原の優しかった母の香りとは少し違っていた.
女主人とすり替わった母は、古くからの知り合いのようでもあり、何か大切な話をしているようだった.
小夜はとても疲れていたのですぐに眠りについた.小夜は優しかった母の夢を見た.夢の中の母は、あの頃のように、小夜に何かを語りかけながら、小夜の手のひらに、小夜の頬に、小夜の額に、何かを描くように指を動かしていた.夢の中で小夜はとても悲しくなったので、涙を流して寝ていた.

 

夜の深まりは、意味を際立たせたが、その夜は、彼が最初の五日間で創造した夜とは異なっていた.・→ 女主人は、眠る小夜の顔にざらざらした顔を擦り付け、二つに分かれた舌で頬を流れる涙を舐め上げた.小夜は彼女から生まれた.

 

 

小夜が目を覚ますと、すり替わった母はすでに帰途についていた.夜はいまだ明ける気配さえなかった.

女主人は小夜に、この家で漆を塗ることを覚えるように.と命じた.

そして、この家は、漆芸を生業とする家で、漆を塗ることは、あなたにとってとても大切なことなのだ.と言った.

 

 

この家の塗師だという一人の女が小夜に多くの事を教えた.

塗師の女は小夜を “小夜ちゃん” と呼び、小夜は塗師の女を “おねえさん” と呼んだ.

小夜が、[ 蛇潜り ] に在る間、小夜は常に塗師の女と共にあり、塗師の女は常に小夜と共にあった.

 

 

塗師の女は、小夜ちゃんの部屋の準備が整ったので、部屋に案内する. と言った.

塗師の女の視線の先には、寄宿棟と呼ばれる建物があり、この敷地の中では最も高く、黒々としていて、敷地の端から端まで、

塗師の女は敷地の中を歩きながら、自分は漆塗りの職工であるが、この家には、漆器の生地を作る職工、漆を塗る塗師、蒔絵や螺鈿や様々な加飾の職工が工程ごとにいて、職工たちは敷地の中に立つ作業小屋で自分に与えられた作業をしている.漆芸全般についての記述は? 敷地の中には、作業小屋以外にも材料を保管する小屋、この家で作られた漆器を保管する小屋、この家に古くから伝わる技法書や図案を保管する小屋、他にもいろいろな小屋が立っていて、すべてはこの敷地の中で完結しているのだ.と言った.

そして、この家は、遠い昔からそのようであって、始まりなく始まり、ゆえに終わりのない家なのだ.と言った.

 

敷地の中には、多くの建屋がひしめき合うように立っていて、建屋と建屋の間は人ひとりがやっと通れる程度の広さと言うよりは、隙間程度のものであり、歩くと衣服が建屋の壁に触れるほどだった.
すべての建屋の外壁は黒い塗り壁で、何度も鏝で磨き込まれ、それは、何層にもわたって、何代にもわたって、行われているようだった.まるで外部からの何者かの侵入を拒んでいるようでもあったし、内部からの何かの漏出を防いでいるようでもあった.
表面はつるつるして、平滑で、上空の月の明かりに照らされて、塗師の女と小夜の姿が朧気に映っていた.換気用だろうか、小屋の上の方に窓が一つ設けられていた.

 

一匹の蛇が壁を上ろうとしていた.壁はつるつるしていたので、途中までは何とか登れても滑って落下した.地面に落ちた蛇は、ぴょんぴょんと何度か跳ね返り、体勢を整えてまた上ろうとするのだが、やはり同じことの繰り返しであった.つるつるした壁は上りづらいようだった.塗師の女は、蛇を手で掴み、※掴んだ時の蛇の動き、応力の発生、細い指先で、細長い蛇の体全体を優しく撫でて、何か語りかけているようだった.そして地面に放すと、するする何処かへと消えて行った.oy. 2874-oy. 2879

 

塗師の女は、この辺りは蛇が多くて、ここが自分の家だと思って、やって来るのだ.と言って声を上げて笑った.
塗師の女の笑い声は、磨き込まれた小屋の壁に反響して、敷地の中を駆け巡り、夜に反響して、元居た場所、塗師の女の口元へと戻ってきた.閉じられたのだ.
塗師の女の笑い声、その姿、小夜は過去に体験したような気がする.記憶をさかのぼったが、何も思い出せなかった.
敷地は歩いても歩いても、小屋が立ち、迷路のようだった.迷路の記述、重要である.
入り組んでいた.が、寄宿棟はこの敷地の中では最も高かかったので、どの場所からでも、寄宿棟ははっきりと見えた.何かの指標?

 

 

 

 

女主人の居宅から、多くの小屋をすり抜け、小屋の数はあまりに多かったので、少し歩くと、建屋の壁にで行く手を阻まれ、左に折れて少し歩くと、また別の建屋が立ちはだかり、あちらこちらに折れながら、但し、逆戻りすることはなく後戻りでさえも前進であるかのように、何処をどう歩いたのか分からないまま、寄宿棟にたどり着いた.

 

 

寄宿棟.

 

職工たちの日々の用は寄宿棟と呼ばれるこの三階建ての建物に集約されていた.一階には食堂、厨房など共用の区画、二階には女の職工たちの居室、三階には男の職工たちの居室が配置されており、小夜の部屋は他の女の職工同様、二階に用意されていた.寄宿棟は敷地と蛇潜りの斜面の境界に立ち、即ち寄宿棟は蛇潜りの斜面と敷地を分け隔てていた.蛇潜りの駅から、すり替わった母と小夜が目指して歩いた灯は、この寄宿棟の二階と三階に灯る職工の居室の灯であった.

一階には敷地側に設けられた小さな出入口からしか入れず、二階と三階には寄宿棟の敷地側に設けられた外階段からしか上がれないのだと言われた.

塗師の女と小夜は、外階段を上り、二階に出ると長い廊下があった、廊下の窓からは敷地が一望できた.

寄宿棟は敷地の中で最も高かった.

 

 

 

 

敷地の俯瞰.

 

小夜、二階の廊下の窓から敷地全体を見下ろす、見廻す.すべてが視界におさまった.決して大きくはなかった.

左右の記述、その間に建屋の記述、

ひしめき合うように立つ建屋.溢れるように立っていた.いまだ開けぬ夜の中に立ち並ぶ黒壁の小屋は異様でもあった.

  • 敷地には、小夜が想像した以上の数の小屋が、ひしめき合うように立っていた.
  • すべての建屋は、あちらこちらを向いていて、計画的に立てられたものではなく、状況で、必要に応じて建てられたもののように感じられた.空いているところに、一棟、また、追加で一棟.
  • それは、収拾のつかない無秩序感、小夜にとっては、秩序のない状態であり、混乱であり、混沌であった.
  • すべての小屋には一つの扉が設けられており、すべての建屋の作りは統一されていた.
  • 小夜は建屋の数を数えた.1、2、・・・15、16・・・43、44、45、46・・・93、94・・・133、134・・・467、468・・・.すべてが同じ作りで整列していない建屋の数を数えることは、難しく、途中で数を数えるのをやめた.基準が失われていた.振動で乱れる.

寄宿棟から見て、敷地右奥には小夜が一晩眠った女主人の居宅が見えた.塗師の女は敷地の左最奥を指さして、あそこに見えるのは [ 蛇晒し ] と呼ばれていて、とても神聖な場所で、大切な儀式を行う場所だからみだりに足を踏み入れてはいけない.と言った.[ 蛇晒し ] は、夜の中で、更に黒々と光沢を放ち、夜の中でも、その黒さは際立っていた.

 

小夜は自分が生まれた場所を見たのだ.即ち、[ 蛇晒し ] . 誕生のための儀式の場

敷地左奥に、蛇晒し、それと相対するように、右奥には女主人の居宅.寄宿棟.正三角形を形作り、その中に建屋が立ち並んでいた.

敷地は決して広くはなく、小夜の視界におさまる程度の広さしかなかった.

 

 

 

 

小夜の部屋.

 

寄宿棟の廊下に沿って並ぶ職工たちの居室は、小夜とすり替わった母が登ってきた蛇潜りの斜面の側にのみに配置されており、何か外部からの侵入者を監視する砦のようにも思えた.( 斜面を登る小夜とすり替わった母も、当然ながら監視されていたのだ.彼らは、警戒、 )

寄宿棟の敷地側には廊下で一面窓が並び、どの場所からでも敷地を一望できた.

小夜の部屋は、長く伸びる建物の中央部に位置しており、外階段から二階に上がると、踊り場の真向いが小夜の部屋であった.引き戸を開くと畳敷きの狭い部屋で、小さな窓が一つあった.小夜の部屋の描写は 窓からは蛇潜りの斜面が一望でき、遠く眼下に駅のホームが小さく見えていた.いまだ明けない夜の中で、小さな常夜灯が駅名標を照らし出していた.即ち、[ 蛇潜り ( へびもぐり) ] .

 

 

小夜の生活も他の職工同様であった.その日から塗師としての生活が始まった.

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  • 漆を塗る作業は、一つの小屋で塗師の女とともに行われた.
  • その部屋はとても狭かった.小夜と塗師の女は一つの作業机に正対して座り、即ち、小夜に一つの作業机、塗師の女に一つの作業机、一つの作業机を二人で使用した.初原の蝶の標本づくりとの関連.
  • 狭い部屋だったので 小夜の背中と塗師の女の背中は動くたびに擦れ合い、衣服が触れ合うたびに、かさかさという音が、小屋の中に、
  • 作業のための電球が天井から吊り下げられていて、風もないのに、ゆらゆらと揺れていた.
  • 電灯は1灯、小夜と塗師の女のために、
  • 小屋の中も、外壁同様に黒く磨き込まれていて、電球のあかり、小夜、塗師の女、やはり朧気に、
  • 天井近くに設けられた、おそらく換気用の窓からは、空に浮かぶ月が見えていたが、月のあかりは、この窓を越えてこの小屋に入り込むことはなく、窓の外で押しとどめられているようだった.この部屋は、1灯の電球が支配していた.
  • 小夜がこの家に滞在している間、この窓が開かれることはなかった.

 

 

女当主以外、この家には職工しかいなかった.男も女もみな、職工であった.女たちは皆透き通るような白い肌をしており、共通して仄かに漂う香りは、初原の優しかった母を想わせたが、母の香りとは何かが違っていた.男たちは、食事と睡眠以外は作業小屋で漆器の制作に従事し、女たちは、男たちの食事の準備や洗濯などの些事のために寄宿棟に戻ることもあったが、やはり、男たち同様、小屋での作業に日を費やした.

小夜は、職工たちが言葉を交わすのを見たことがなかった.職工たちは、この家に古くから伝わるこの家独自の技法を忠実に守るのみであって、それ以外は何もしなかった.

彼らは、言葉を交わさないので、彼らには名前は必要なかった.即ち、男も女もみな、“ 職工 ” であった.

 

 

 

 

小夜、敷地の散策、蛇晒し.

 

仕事を終えると、小夜は敷地を一人で歩いた.

小屋と小屋の間を歩くと、かさかさという音が聞こえた.自分の衣服と壁が擦れ合った音かと思ったが、歩を止めてもその音は鳴り続いていた.

  • 音は小屋の中から聞こえているようだった.
  • 小夜が壁に耳を近づけると、音は止んだ.
  • この敷地を歩いている時は、あちらこちらから、いつも聞こえていた.
  • あちらから聞こえたかと思うと、こちら、そちらに意識を向けると、音は止み、また別の場所から、輪郭の滲んだ町、騒めく部屋の予表.
  • 壁を上ろうとしている一匹の蛇? あの時と同じである.小夜は気持ちが悪かったので触れることはできなかった.
  • 蛇は、小夜を見、まるで小夜に触れられることを待っているようだったが、そのうちどこかに行ってしまった.
  • 小夜は、初原の一件を思い出した.或いは母が聞かせてくれた初原の言い伝えを思い出した.

どこをどう歩いたのかも分からないまま歩いていているうちに、[ 蛇晒し ] の前に立っていた.があった.塗師の女は儀式のための場所であり、神聖な場所だと言った.

そこは、大人が横たわって両手を広げると端から端まで届くほどの広さしかなかった.

形はほぼ正円.

直径は当時の小夜の歩幅でおおよそ○○歩、塗師の女の歩幅であれば○○歩.

以下、詳細を記述

  • 寄宿棟から見た時よりも、夜の中でも黒々として
  • なめらかな曲面、上側か下側に、どちらかに膨らむか、凹むか、或いは水平か?
  • 中央部に傷のようなもの.
  • 小夜は、履き物を脱いで素足で蛇晒に上がる.神聖な場所だと塗師の女は言っていた.
  • 表面はつるつるしていた.ひんやり 素足にはとても心地良かった.
  • 中央部には傷のようなものがあり、穴、触れるとざらざらしていた.ぱくぱくと開いたり閉じたりしていた.何か話しているようだった.
  • 覗くと、どこまでも深く、穴.底の方はテキストの塊である.
  • 穴に耳を近づけると、穴の底の方では、何か音がしていた.話し声、ひそひそ話?或いは一つの声、言葉、何かを語っている声のようにも思えた.

小夜は、自分が生まれた場所にたどり着いたのだ.即ち、[ 蛇晒し ] .

 

 

気がつくと、傍らに塗師の女が立っていた.塗師の女は、「小夜ちゃんは、この場所が気になるのね.小夜ちゃんは、特別だから. 」と言った.

小夜は、塗師の女との約束を破った、塗師の女は、また破ったねと言った、塗師の女も素足で上がってきた、二人で穴を覗いた.傷穴はとても小さかったので、真上からしか覗けなかった.角度の問題、カメラのファインダー、初原の記憶へと、

 

 

そして、塗師の女は、この家に古くから伝わる言い伝えを小夜に聞かせた.

 

 

 

言い伝え、蛇潜り、蛇晒し、

  • 大昔、この辺りは一つの集落だった事.
  • ある時、一匹の大蛇がこの地にたどり着いた事.
  • 蛇は世界中を這い回り、身体中に無数の傷を負っていた事.
  • 蛇は、愛した女がいたが一緒になれなかった、
  • 裏切られたのだ.と語った.
  • 蛇は愛した女の事を想い、哀しみ、嘆き、激しく身悶え、身悶えるたびに、蛇の子を孕み、その都度、その都度、蛇の子を生み出していった事.
  • 大蛇から放出された蛇の子たちは、斜面に潜り込み、であるからその斜面は [ 蛇潜り ] と呼ばれ、小夜とすり替わった母は、蛇潜りの斜面を歩いてこの家にたどり着いた事.
  • その集落の住人たちは、怖くなって、皆逃げ出してしまい、蛇だけが独り取り残されてしまった事.
  • 一人取り残された蛇は、寂しく、更に身悶え、更に蛇を生み出した事.
  • ある所で洪水が起こり、洪水から逃げ延びた一団が、この地にやって来た事.
  • その人たちは、蛇が絡み合って作られた一床の筏に乗ってやって来た事.[ 初原、行列する集落 ] の言い伝え・→
  • この地に逃げ延びた人たちは、漆を扱うことに長けており、蛇の体表の傷に漆を塗り込み、傷を塞いだ事.そして漆の樹液にこのあたりの夜を混ぜて、黒漆として蛇に塗り込み、蛇が動かないように固めてしまった事.
  • 今、小夜と塗師の女が見ている立っているこの場所は、黒漆で固められた大蛇の身体の一部であり、大蛇の身体の一部が露出しているので、[ 蛇晒し ] と呼ばれている事.
  • 中央部の傷は、あまりに深いところまで到達していたので、どうやっても塞ぐことができず、そのままになっている事.
  • 但し、固められているのは、漆で固められたのは蛇の体の表面、ほんの一部であって、[ 蛇晒し ] 、土中の深い部分では、今この時であっても蛇の子は生まれ続けている事.
  • それは、狂おしいまでの生成の行為である事.
  • そのような生成の行為には、振動とぬめりが必要不可欠であるという事.
  • 今、小夜と塗師の女が見ている [ 蛇晒し ] は、神聖な場所で、とても重要な儀式が執り行われる場所であるという事.

塗師の女は、この敷地と蛇潜りの斜面は、地上では寄宿棟を境にして区切られてはいるが、土中の深いところでは繋がっているのだ.ここでは夜が必要なのだ.そして、この家の女主人は香を練る者、扱う者であって、それは即ち夜を扱う者でもあるのだ.と言った.

 

塗師の女は、これは昔から伝わる言い伝えで、嘘か本当かも分からない、誰かの作り話かもしれない.と言って笑った.

 

 

 

 

夜、昼、二値.

 

小夜は、塗師の女について毎日漆を塗り続けた.小夜が漆を塗るごとに蛇潜りを覆う夜は、その堅牢さと光沢を増していった.時折、めりっという音とともに、蛇潜りを覆う厚い夜に亀裂が入ることがあった.亀裂から垂直に昼が突き刺し降りてきた.時には、夜がぺろりと剥けて、ぬるりと昼が滑り込んできた.夜と昼の交代は、俊敏に、素早く、躊躇なく行われた.

そのようにして訪れる昼は、敷地に密集する建屋の隙間にまで入り込み、同等且つ、均一の明るさで敷地全体を照らし出した.そして、気がつくと昼は元居た夜の向こう側へと消えていた.

塗師の女は、「争っているのよ.ここにはどちらかしかないの.どちらともまるで違っていて、お互いがお互いを必要としているの.でも小夜ちゃんには、どちらかを選ぶ権利はないのよ. 」と言った.そして、「 小夜ちゃんは、特別だから. 」と言って甲高い声で笑った.

 

蛇潜りには、夜と昼しかなく、夜と昼は突然入れ替わった.気がついたら昼で、また気がついたら夜で、すべてがそんな調子だった.一日に二度も三度も昼が訪れることもあったし、かと思えば、何年も夜が続くこともあった.雨など一度も降ったこともないのに、蛇潜りはいつもじめっとしていて、ねちょねちょと音を出していた.蛇潜りを登った時は?

 

小夜の部屋の窓から、眼下に広がる [ 蛇潜り ] を見下ろすと、斜面の下の方に小さく見える無人のホームには、列車が停車していた.ほどなくして、列車は警笛を発すると、ゆっくりと走り出し、トンネルに消えて行った.やはりトンネルの中に入ると、即ち、蛇潜りの土中へと潜り込むと、いや増して蛇潜りは大きくうねった.振動は?

ふと気がつくと、小夜の傍らに塗師の女が立っていた.塗師の女は、いつもそのようであった.塗師の女は「 振動、蛇の関係についての説明 」と言った.

 

 

 

蛇潜り、深夜の人影、金色の蛇.

 

その日の仕事を終えて、部屋から蛇潜りを見下ろしていると、敷地からひとつ、また一つと人影が蛇潜りへと下りてゆくのが見えた.人影は徐々に増えて、見る見るうちに [ 蛇潜り] は無数とも思える人影で埋め尽くされていた.その人たちは、[ 蛇潜り] の土中に手を突っ込み、何かを探しているようだった.

気がつくと、小夜の隣には塗師の女が立っており、あの人達は、金色の蛇を探しているのだ.と言った.蛇潜りに潜り込んだ無数の蛇の中には、金色の蛇がいて、その蛇の金色の皮をはいですり潰して蒔絵の粉として用いると、これまで誰も見たことのないような神々しいほどに輝く蒔絵が完成するのだ.この家が、完成、私たちの血が完結.だから、あの人たちは遠い古の時から今に至るまで、金色の蛇を探し求めているのだ.と言った.そして、あの人たちこそ、職工だ. と言った.

また、このような夜もあった.

徐々に、[ 蛇潜り] の斜面が赤く染まることがあった.それは、蛇潜りを覆う夜に投影されて、夜が赤く染まった.

塗師の女は、蛇潜りの土中の蛇たちが互いに喰い争って共喰い、表面に血が滲みだしているのだと言った.そして、「綺麗でしょ、まるで小夜ちゃんの肌みたいね. 」と言い、自分の頬を小夜の頬に擦り付けた.

 

そして、塗師の女は、近くの町や村でまことしやかに語られている、いくつかの噂話を小夜に聞かせた.

 

蛇潜り、噂話.

 

噂話、蛇を食らう人たち.

あの家の人たちは、皆、蛇を食べて生きているのだ.畑も何もかもが失われた地では、蛇ぐらいしか食物はあるまい.だからあの家の人たちは、蛇に呪われているのだ.否、そうではない、蛇に愛された人たちなのだ、違う、あの人たちこそ蛇なのだ.という噂話.

 

噂話、螺鈿.

あの家で作られる螺鈿には、夜行貝の殻の代わりに蛇の皮が用いられているのだ.こんな山奥では、貝など手に入るわけがあるまい.生きた蛇の皮を剥いで、模様の美しいところを切り取って下地に貼り付けてゆくのだ.だからあの家の螺鈿には異様な図柄が施されているのだ.という噂話.

 

噂話、香.

あの家で作られる漆器を見ていると、どこからともなく、何とも言えないような香りが漂い出し、うっとりした気持ちになる.そして気が狂ったようになり、しまいには死んでしまうのだ.それは、その香りを嗅ぐと普段見れないようなものを見てしまうからだ.という噂話.

 

噂話は、これだけでは足りず、塗師の女は延々と語り続けた.

これらの忌まわしい噂話によって、この家は近くの町や村の人々から忌み嫌われ、誰もこのあたりには近づかなくなった.

結果から言えば、この家の漆芸は蛇によって守られたのである.即ち、発展を遂げることもなかった代わりに、始まりをそのまま今に受け継いでいた.

 

そのように忌み嫌われた家であっても、この家を訪れる人たちは少なからずいた.塗師の女は、彼らはこの家の漆器を求める蒐集家たちで、世の中にはおかしな人たちが少なからずいるのだ.と言って笑った.


蛇潜りに訪れる奇妙な人たち.

  • 彼らは、一人の場合もあったが、大抵は数人またはもっと多くの人たちで、隊列を組んで訪れることもあった.
  • 彼らは、夜に紛れてこの家を訪れ、夜のうちにこの地を去った.
  • 彼らは、遠い場所から訪れているようではあったが、どこから来るのかは、誰も知らなかった.
  • 彼らは、この家の漆器を金品と交換して持ち帰った.
  • 彼らが持ち寄る品は、きわめて高価なものであったり、珍しく、貴重なものばかりであった.

塗師の女は、この家の女主人が練る香は、この奇妙な人たちが持ち寄る特殊な樹木から作られるもので、だから特殊な力を持っているのだ.と言った.

 

奇妙な蒐集家たちが持ち寄る品々は、敷地に建つ小屋の一つに納められた.その小屋は言うならば、宝物庫であり、小夜にとっては、学びの場であった.

実に多くのものが保管されていた.

小夜が読めないような文字で書かれた書籍、それらは、塗師の女が説明してくれた.とんぼ玉、小夜は展翅用の虫ピンを思い出した.石の下に隠した.蝶の写真集.

その小屋は、見た目は他の小屋同様に非常に小さかったが、保管しても、保管しても溢れることはなかった.

この場所で小夜は塗師の女から多くの事を学び、塗師の女は小夜に多くの事を教えたのだ.

 

 

小夜は、この家にある間、常に塗師の女と共にあった.

塗師の女は小夜に多くの事を教え、小夜は塗師の女から多くの事を学んだ.

  • 塗師の女は語り続け、一昼夜、もっと語り続けた.
  • 塗師の女は、語り終えると、疲労.
  • 次ぎ合う時にははつらつとしていて、
  • 表情の変化、賑やかな皮膚 ホテルの女中との共通点.

そのようにして、塗師の女は、語る事で自分の生を全うするのだ

だから、愛の物語だと言ったではないか.愛の物語特有の、純度の高さ、ハプニングも当然起きるのである.

 

時には、塗師の女は、小夜が怖さを感じることもあった.大きく甲高い声.

怒っているようではあるが、決してそうでもない.

疲れているのか?

小夜は、何かに似ていると思い、記憶を思い出してみたが、何も思いつかなかった.

小夜が、蛇潜りに来てから、多くの月日が経過していた.

 

 

 

塗師の女、深夜の外出.

 

夜、何らかの形容が必要とされる夜、小夜はまだ、形容する言葉をもたなかったが、おそらく特殊な夜、それは、[ 初原、行列する集落 ] の母が、夜ごとに外出した時間帯と同等の特殊さを有する夜、時折、明らかに隠すことなく訪れる夜、廊下を歩く一つの足音があった.足音は小夜の部屋の前で暫く留まり、外階段から敷地へと下りた.( 寄宿棟から敷地へは、外階段を下りるしかないのだ. 外階段は小夜の部屋の真向いにあった. ) 小夜が廊下の窓から敷地を見下ろすと、女主人の居宅へ向かう塗師の女の姿が見えた.塗師の女は、ひしめき合う建屋の間をするすると、女主人の居宅の後ろに立つ香を練るための小屋へと入った.

小夜には、塗師の女がそこで何をしているのかは分からなかった.何日も戻らない事もあったが、小夜の前に現れた時にはいつもと違った香の香りが、いつもよりも強く放たれていた.

 

 

小夜は、仕事を終えると、ある小屋へと向かった.小夜はその小屋が好きだった.

小屋、漆器の保管庫.

敷地の中に立つ建屋で小夜は、保管庫に

  • この家で作られた漆器は、古い時代のものから、最も新しいものまで、すべてこの小屋に納められていた.
  • 蒔絵、螺鈿の漆器についての記述.
  • この家で作られる漆器は、黒漆や朱漆が塗られただけの単純なものもあったが、外側はなにも描かれていなくとも、蓋を開けると必ず蛇か蝶、或いは蛇と蝶の両方が描かれていた.どちらも描かれていないものはなかった.
  • すべての漆器は仄かな香りを発していた.
  • 小夜が好きな漆器があった.それは小さな手箱で.初原でのファインダー越しに見た蝶の標本を思い出していた.たくさんの蝶.
  • 図版の配置?

 

 

 

漆器、サイン.

 

漆器の保管庫には、この家で制作された漆器のすべてが保管されていたが、すべての漆器の底には、蛇と蝶、または蛇か蝶をあしらった小さな図案が描かれていた.それらは、目立たないように描かれていた.

塗師の女は、図案はその漆器の製作者を示すもので、似てはいるが製作者によって明らかに異なっているのだ.その図案こそが、職工がこの家で生きた唯一の証で.彼らには、それしかないのだ.と言った.そして、「小夜ちゃんも、自分の図案を決めなさい.小夜ちゃんが生きた証はその図案しかないのだから. 」と言った.

塗師の女は、朱漆で塗り仕上げた小さな椀を取り上げ、これは自分が作った漆器だと言った.底には、蛇と蝶が描かれており、蛇は蝶を飲み込もうとしているような図案が描かれていた.一本の蛇の牙には朱漆がさされていた.

小夜は、一匹の蛇を描き、その左目に朱漆を指すことに決めた.

 

 

繋ぎの文章

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漆器の保管庫、幻視.

  • その日はいつもと様子が違っていた.部屋中に薫香が漂い、香りは徐々に強くなった.
  • 突然、小夜が好きな手箱ががたがたと音を立て始めた.小夜が近づき蓋を開けると、中から蝶が舞い上がった.
  • 蝶は次から次へと箱から舞い上がり、手箱に描かれている蝶の数をはるかに超えた蝶の数で部屋中に溢れた.
  • 更に蝶は舞い上がり、蝶は四方八方に飛翔した.舞い上がっても舞い上がっても部屋から溢れ出ることはなかった.あの時もそうだ、小夜は、初原の物置の出来事を思い出していた.小夜は、蝶が飛翔すると、何かが起きるのだと思った.
  • 強い香り、部屋中に充満.
  • あまりの香りの強さに、香煙、目が眩む.
  • 次の瞬間、小夜は、蛇潜りの斜面に立つ自分自身の姿を見た.小夜の足は蛇潜りの斜面.
  • 小夜はトンネルに消えてゆく列車を見た.
  • 振動が蛇潜りを揺らし、足元に広がる蛇潜りが大きく波打った.
  • 蛇潜りは、振動で、もごもごと動き出し、蛇潜りの表面を覆っていた僅かの、薄い、薄く、覆っていた土が払いのけられ、
  • 蛇潜りに潜っていた無数の蛇がその姿を鮮やかに顕した.
  • 絡み合う蛇、状況の描写.
  • 小夜が上空を見ると、どこから現れたのか無数の蝶が上空を舞っていた.
  • 蝶の翅の文様が夜に映し出されていた.空からは月は消えていた.
  • 蝶は、上空を旋回しながら、地面の蛇を威嚇
  • 蝶と蛇との格闘
  • 小夜はその中間に位置

「小夜ちゃん、小夜ちゃん、」と呼ぶ塗師の女の声が聞こえ、小夜は我に返った.

小夜は保管庫にいた.保管庫はいつものようだった.

塗師の女はいつものように、小夜の傍らに立ち、「小夜ちゃん、何かを見たのね. 小夜ちゃんは特別だから. 」と言って笑った.

 

 

夜の亀裂から入り込んだ昼が、何日も何年も蛇潜りを覆い尽くすこともあった.敷地は真っ白くなり、そんな時は蛇潜りからきーきーという音が聞こえた.湿り気を失った蛇潜りの土中で、蛇が擦れあって軋んだ音を出しているのだ.と塗師の女は言った.

儀式の始まりを告げる何らかの現象の記述.

 

 

 

蛇晒し、儀式.

  • 小夜が、部屋の窓から真っ白く照らし出された蛇潜りの斜面を見ていると、真っ白い蛇潜りの斜面の描写.
  • 湿り気を失った蛇潜りの土中で、蛇が擦れあって軋んだ音を出しているのだ.と塗師の女は言った.
  • 廊下を歩く足音が聞こえた.先ず、寄宿棟の三階から、足音は続き、小夜の部屋の両側から、多くの足音、外階段から敷地へと下りていった.
  • 小夜が廊下の窓から、敷地を見下ろすと、多くの職工の影が連立する建屋の隙間を縫うようにして、蛇晒へと向かって行った.
  • 何日も昼に照らされたので、作業小屋は白くなっていた.影も白くなっていた.
  • 作業小屋の影、
  • 作業小屋の扉が次々と開かれた.すべての扉は同時に開かれたのだ.作業小屋から職工が現れ、蛇晒へと向かっていた.小夜が思った以上に職工の数は多かった.職工の数は無数ではないが、無数のように思われた.
  • 敷地を歩く職工の足音の描写.敷地に溢れる音.
  • すべての影は迷路のような敷地の中を蛇晒に向かい、集結、静止、一度、敷地は静まる.
  • 女主人の居宅から、女主人が、蛇晒へと向かって歩く.
  • 敷地が静止する中で、女主人の姿だけが動く.
  • 多くの影が揺らめく中で、ある一つの影が、すべての影に違いは見出されなかったが、小夜は、女主人の影が蛇晒に横たわったのだと思った.
  • 蛇晒全体の動きの描写.
  • 多くの影は、女主人の影に近づき、折り重なるように、運動、そして静止.昼の中で行われる儀式.それは夜を呼ぶ儀式なのか?
  • 小夜は、その一部始終を見たのだ.
  • 廊下の窓から、小夜の傍らには塗師の女が、いつものように音もなく、
  • 塗師の女はこのように語った.「小夜ちゃん、あの人達は、儀式をしているのよ.夜を求めているの. 」と言った.
  • そして、小夜のうなじのあたりに細く長い舌が、落ち着きなく這い回る.
  • 塗師の女の指は小夜の衣服の上から、体全体を愛撫した.
  • 塗師の女は、小夜の衣服の胸元から衣服の中にするすると入り込み、小夜の身体と一つになった.
  • 塗師の女は、小夜の衣服の胸元から顔を出して、自分の頬を小夜の頬に擦り付けて、「小夜ちゃん、小夜ちゃんもあそこで、あのようにして生まれたのよ. 」、そしてこのように付け加えた. 「ねっ、だから言ったでしょ、小夜ちゃんは、特別だと. 」
  • 小夜は塗師の女の顔を見た.塗師の女はうっとりした顔で、小夜を見つめていた.彼女は瞬きをしなかった.小夜も瞬きをしなかった.
  • 瞬きをしない二つの顔が見つめ合っていた.
  • 塗師の女は小夜の腕に巻き付き、するすると腕の先まで移動した.
  • 次の瞬間、ちくっという痛みが走った.塗師の女が、小夜の指先に噛みついたのだった.
  • 痛みは、小夜を初原の記憶へと ※初原の記憶が飛び込んで来た.
  • 懐かしい記憶が甦った.標本づくり、刺し傷、母、父、魚釣りの少年、彼は寂しそうな顔をして何かを言おうとしたのだ、すり替わった母、蛇、自慰、そして私は蝶を捕獲した、展翅はしたが標本を作ることなく、今ここにいるのだ.あの蝶はどうなったのだろう、
  • 塗師の女は、小夜の顔を見て言った. 「小夜ちゃん、何か思い出したのね.今、魔法をかけたのよ.でもいつか、魔法が効かなくなる時が来るのよ. 」そしてこう付け加えた. 「小夜ちゃんは、特別なのよ. 」
  • 小夜が塗師の女の顔を見ると、彼女は悲しそうな顔をしていた.瞼のない眼には、涙が浮かんでいるようだった.そして塗師の女は一気に小夜の身体を貪り始めた.
  • 小夜は、塗師の女の動きに身を委ねると、快楽が小夜を取り巻いた.

 

気が付くと、やはり、廊下、敷地には、いつもの夜が訪れていた.黒々とした建屋、月が朧気に映り込み、歪み、蛇晒はいつものように黒々と光沢を放ち、何もなかったかのように、静かに、

 

 

小夜は部屋に戻り、蛇潜りには湿り気が戻っていた.窓を開けて外の空気を部屋に入れた.湿った夜が部屋に充満した.

きーきーとあれだけ騒がしかった蛇潜りには静寂が訪れ、空には月が、いつもと同じ場所から蛇潜りの斜面を照らし出していた.

小夜の身体には、快楽が残っていた.小夜は、廊下での行為を思い出しながら体に手を這わせた.

初原、すり替わった母の自慰を思い出す.

小夜の身体はべとべとしていた.夜の粘着なのか、快楽による体液の漏出なのか、小夜には区別がつかなかった.

最終列車の警笛が聞こえた.小夜が蛇潜りの斜面を見下ろすと、蛇潜りはねちょねちょした音をひときわ大きく響かせ、渦を巻いているようだった.活発な活動

ふらふらと一つの人影が蛇潜りへと下りて行った.人影は渦を巻く蛇潜りに徐々に飲み込まれていき、ついに見えなくなってしまった.

月明かりの下、人影は、一瞬小夜を振り向いたような気がした.

 

小夜は、その日以来、塗師の女を見ることはなかった.

小夜と塗師の女、二人のための作業小屋、塗師の女不在の作業小屋、塗師の女の作業机の上の電球は消えることがなかった.或いは消えたか?小夜一人残された作業小屋には、塗師の女の香りが漂っていた.厚く塗り固められた作業小屋から、外に出ることはなかった.香りは常に小夜とともにあった.

 

 

 

小夜は、塗師の女に教えられた技法を忠実に守り、それはこの家独自の変わることのない技法であり、この家に古くから伝わる技法によって、漆を塗り続けた.漆器を保管する小屋の中には、他の職工たちの仕上げた漆器とともに、小夜が塗った漆器も納められたが、納めても納めても溢れ出ることはなかった.

 

 

 

小夜が、漆を塗るごとに、蛇潜りの夜はより堅固に塗り固められ、夜と一体になった蛇潜りの斜面の土中では無数の蛇が蠢いていた. 

 

 

 

初原への帰省、父とすり替わった母の死.

 

小夜は女主人から、初原の父とすり替わった母の死が告げられた.

  • 蛇潜りに来てからどれほどの歳月が経過したのか、小夜は [ 初原、行列する集落 ] へと戻るため、蛇潜りの斜面を下って、無人の駅へと向かった.
  • やはり、地面を踏み込むと、同じ力で跳ね返されたので歩きづらかった.
  • 蛇潜りは、十分な湿り気があるにもかかわらず、きーきーと音を立てていた.それはまるで小夜との別れを悲しんでいるかのようでもあった.
  • 小夜は、ホームに停車している列車に乗った.ほどなく列車は走り出したが、トンネルへは向かわず反対方向へと向かった.
  • 小夜は、塗師の女の言葉を思い出した.「どちらかしかないのよ、でも、小夜ちゃんにはどちらかを選ぶ権利は与えられてはいないの. 」「小夜ちゃんは特別だから. 」
  • 窓の外には、蛇潜りに来た時と同じ夜が続き、車窓には夜を背景に小夜の顔が映っていた.小夜の髪は既に白くなっていた.
  • 記憶の中の塗師の女は、何か悲しそうな顔で小夜を見つめていた.

 

 

 

 

 

帰郷.初原、行列する集落.

復習、整理、

 

 

 

その月の始まりの日にすり替わった母が逝き、その月の終わりの日に父が逝った.

小夜が [ 初原、行列する集落 ] へと到着した時には、すでに葬儀も終わり、集落は何もなかったようにしんと静まり返っていた.本当に葬儀があったのか、あったとしてもそれがどのような葬儀であったのかさえ知る由もなかったが.

  • 小夜は当時の記憶をたどった.
  • 父との蝶取り、裏庭の小屋、草地、川、魚釣りの少年、川は当時と同じように流れ、樹木も同じように生い茂り、
  • 初原は、小夜が記憶にとどめている状態のままで、何も変わってはいなかった.変わりようのない場所だった.

草地を歩く

  • 家の裏庭から川に向かって広がる草地もそのままであった.地面を覆う草が、その目的地、到達点であるかのように、集中して、あの場所、魚釣りの少年の釣り場.水の止まった場所、ここで、蛇を見たのだ.彼はいなかった.
  • 地面を覆う草は、当時のまま、走ったこと、
  • 父と蝶取りをした草地を歩くと、何処からか蝶が一頭飛んで来た.小夜は素手で捕まえると、殺すことなく放した.蝶はどこかへ飛んでいった.
  • あれほど苦労した蝶の捕獲、今では簡単に捕獲できた.小夜は、展翅したまま置き去りにした蝶を思い出した.
  • 忘れていた記憶の数と、思い出した記憶の数は同数であった.

裏庭の小屋

  • 裏庭の小屋は、当時のままであった.中に入ると外から見たままの大きさが内部に広がっていた.中は地面が露出して、何もなくがらんとしていた.小夜は物置に入るのは二度目であった.一度目は、幻視.小夜は、この場所で幻視を見たのだ.
  • 透明のシート
  • 父はこの小屋の中で、小夜へのプレゼントを準備していると優しかった母は語った.
  • その母はすでに失われ、父もすり替わった母も死んでしまったのだ.今となっては、何も分からなくなってしまった.
  • 小夜はあの頃を思い出しながら、あの頃したように指先で地面に何か書いた.地面のわずかな湿り気も感じられた.
  • すり替わった母の自慰が飛び込んできて、置き換えられた.
  • 大地は感じた、快楽を.大地は愛した者を忘れてはいなかったのだ.あれほどまでに愛した、細く弱々しい指先を.

 

焚火炉

  • 小屋の脇の焚火炉も当時のままであった.母と蝶の標本を焼却.あたりは、円形は、大きさも恐らく当時のまま保たれ、現在の小夜の歩幅で、一歩もないほど、しゃがむと、横たわるには、あまりに小さく、小夜は身体的にも成長していた.
  • 焚火炉を形作る石の一つ、小夜は記憶していた、あの時虫ピンを隠した石.あの当時、昼間ひとりでいる時、何度も石の下から虫ピンを取り出し、何度も指先に刺して遊び、母に見つからないように何度も隠したあの石.
  • 石を上げると、虫ピンは僅かに土が被ってはいたが、指先で取り除くと、当時のままの姿が現れた.
  • 頭には青色の、それはガラス製である事を今は理解できた.
  • 小夜は指先に刺した.ちくっという僅かの痛みとともに当時の記憶が一気に押し寄せてきた.蝶取り、魚釣りの少年、母との対話、母は、私の夜は今はまだ小さいから、私の名前は小夜と言うのだと言った.#############################################.
  • 押し寄せる記憶は、初原を越えて蛇潜りへと至り、小夜の今現在さえもが、記憶として小夜を捕らえているようだった.記憶の側が小夜をとらえていた
  • 小夜はあの頃を思い出しながら、あの頃したように指先で地面に何か書いた.地面のわずかな湿り気も感じられた.
  • 小夜、記憶、一連の記憶が
  • しかし、すり替わった母の自慰が飛び込んできて、彼女の体の動きに、輪郭、置き換えられた.
  • 大地は感じた、快楽を.大地は愛した者を忘れてはいなかったのだ.あれほどまでに愛した、細く弱々しい指先を.
  • 小夜は虫ピンを上着のポケットにしまった.蛇潜りに持って帰ろうと思った.


家の中

  • 裏口から家に入ると、中はがらんとしていて何もなかった.もともと何もなかったのだと思った.あるものはあるし、ないものはないのだと思った.
  • 座敷の電球を点けると、部屋明るくなる.
  • ここで父と展翅をして、標本を作り、母は台所で水仕事をしていた.
  • 畳にはいくつかの黒いしみが残っていた.私の血のしみだ、すり替わった母は舌で吸い上げていた.
  • 押入れを開けると、黒い木箱が一つ置かれていた.
  • 当時小夜は、父がこの木箱を開けるのをワクワクしながら見ていたものである.色とりどりの飾りのついた針が箱の中にたくさん入っていた.あちらこちらを向きながら.
  • 黒い木箱は、押し入れの中で、僅かな光を取り込みてかてかと光っていた.触れるとつるつるしていて、今では、それが黒漆で塗られたものであることを小夜は理解した.
  • 小夜は木箱の底を見た.小さな図案が施されていた.一匹の蛇、そして左目には朱色が指してあった.それは小夜が作った漆器であることを示していた.その瞬間、小夜は何かとすれ違ったと感じた.時系の乱れ コンテンツ“考察”
  • そのすれ違いは、初原での最初の刺し傷から、幾度となく小夜を捕らえてきたあの、何とも言えない感覚である.

 

 

小夜は蛇潜りに戻ろうとした.

時折、突然訪れるおかしな蒐集家たちのために漆を塗らなくてはいけなかった.

小夜が蛇潜りへと戻ろうと玄関を出た時、郵便受けに差し込まれている封筒を見つけた.

 

 

 

 

古い書簡、葬儀の招待状.

 

それは古くからそこに差し込まれていたかのように、ぼろぼろであった.切手も貼られ、差出人も記されてはいたが、ぼろぼろだったので読めなかった.

封筒の中には一枚の紙、やはり封筒同様に、ボロボロで、しかし書かれている文字は読めた.

それは葬儀の招待状であり、要旨は以下五項目.罪に関する記述は?

  • あなたは、すでに失われたし、さらに失われるので、あなたの葬儀を執り行う事.
  • あなたは、極めて長い期間、穢れるが、その後浄められる事.
  • あなたの葬儀場には、あなたのための祭壇があり、その祭壇はあなたを恋い慕い、多くの日数の後、あなたはその愛を受け入る事、そしてさらに多くの日数の後、あなたは失われる事.
  • あなたの葬儀には、あなたの見知った者たち、あなたは知らないが、あなたを知っている多くの者たちが参列し、その者たちの目はあなたを捉え、あなたの目も、その者たちを捉える事.
  • あなたは、その者たちの祝福を受け、幸いなる者、大いなる者と呼ばれる事.

 

小夜が招待状の文面を読み終えた時、警笛が鳴り響いた.そして小夜の身体の最も深いところから振動が沸き上がり、小夜は闇に連れ去られた.

小夜は、すでに振動を孕み始めていた.

 

 

 

 

 

小夜、闇.

 

 

 

小夜は闇の中で多くの人たちとすれ違った.

小夜は、すれ違うたびに尋ねた.「わたしは、わたしの祭壇を探しているのです.あなたは、私の葬儀場を知りませんか. 」「噂には聞いたことはあるが、実際に見たことはない.お前の祭壇は、お前が求めよ. 」

また、大勢の人たちが集まっている場所で、その中の一人に尋ねた.「ここは、わたしの葬儀場ですか.わたしは、わたしの葬儀場を探しているのです. 」「否、ここはお前の葬儀場ではない.別の者の葬儀場だ.お前の葬儀場は、お前が求めよ. 」

  1. 闇はあちらこちらに斑があり、どこまでも深く吸い込まれてしまいそうだった.※ブラックホールか?
  2. 闇は小夜の思考を遮断し、行く手を阻んでいるようでもあった.
  3. 小夜は、闇を上る一匹の蛇を見た.蛇は一つの輪郭を形作った.それは、何か落書きのようでもあった.※初原、行列する集落の小夜の落書き
  4. 遠くで列車の走る音、伴い振動.その輪郭から無数の蛇が放出された.
  5. 振動は、輪郭に、線に蛇は絡み合いながら面、輪郭に面をかぶせた.形象となった.動きの描写
  6. それらは、様々な形象を形作った.例えば、初原の優しかった母.
  7. それらの形象は、闇の中で極めて具体的で、触れれば、温度さえも感じられるほどだった.
  8. それらの形象は、正確な順序で現れた.それは小夜にとってはある一つの秩序であり、秩序が守られている事に小夜は安心感を覚えた.
  9. 遠くで列車の走る音が聞こえた.伴い振動.振動によって、さらに多くの蛇が放出され、放出された多くの蛇は、絡み合いながら新しい形象を小夜の眼前に次々と生み出していった.
  10. それの形象は、すべてが小夜の見知ったものであり、小夜は懐かしさを感じた.
  11. とても長い期間、小夜は懐かしさに浸っていた.
  12. 異変.
  13. 遠くで列車の走る音、伴い振動.これまでとは異なった振幅.振動は目の前の形象を震わせ、形象はもごもごと動き出した.
  14. 優しかった母の表情は不吉に歪み、魚釣りの少年の小夜を見つめる視線も何かいやらしく感じた.小夜は気持ちが悪くなったが、小夜のことなどお構いなしに、次々と小夜の知っている風景が映し出された.すべては歪み、不吉であった.
  15. 小夜は、何かとても気持ちが悪く、不快な感じがした.小夜は、秩序が乱れたと感じた.
  16. 小夜はポケットから虫ピンを取り出し、指先に軽く押しあてると、ちくっという痛みと共に、正しい記憶が現れたが、しかし、正しい記憶はもごもごと動く形象の中に飲み込まれて、消えていった.秩序は弱く、もごもごした形象は強かった.記憶は形象に反映される
  17. 小夜は、更に虫ピンを指先に刺した.
  18. 刺すたびに、ちくっとした痛みは小夜の見知った風景を知っているままに正しい序列を守って現れたが、現れるたびに、もごもごと動く形象の中に失われていった.
  19. 飲み込まれるたびに、小夜は、針を刺し、知っている風景を出現させたが、また飲み込まれていった.
  20. ###############
  21. 闇の中から、笑い声が聞こえた.笑い声は闇の中で反響し合い、小夜には多くの者たちの笑い声に聞こえた.
  22. 闇に反響する笑い声は闇を震わせ、形象は更に歪み始めた.
  23. 小夜は、大声を出して打ち消そうとした.小夜の声も震えていたが、何の効果もなかった.言葉を含まない叫びであった.小夜にはいまだ言葉は与えられてはいなかった.
  24. 小夜は、痛みによって秩序を取り戻そうとした.
  25. 小夜は、叫びと共に虫ピンを指先に刺した.突き刺すたびに新たな痛みが小夜に訪れた.が、やはり失われていった.
  26. 小夜は狂ったように指先に針を刺し続けた.
  27. 小夜の指先は、虫ピンによる多くの刺し傷で覆われていた.
  28. 痛みと共に正しい形象が秩序正しく現れるのではあるが、しかしもごもごとした形象に飲み込まれてゆくのである.
  29. 小夜は、大声とともにこれまでよりも深く、強く虫ピンを刺し込んだ.針は、小夜の指先を貫通した.指すというよりはねじ込んだ.
  30. その瞬間、大きな振動が闇を襲った.もごもごした形象の輪郭は乱れ、無数の蛇が小夜の足元にばらばらと崩れ落ち、※闇の中に消えていった.するすると.初原の幻視.
  31. 闇ががらがらと砕け散った.
  32. ある声が聞こえた. 「いつか魔法が効かなくなる時が来るのよ、小夜ちゃんは特別だから. 」
  33. 最後の一刺しによる傷からは、地が滴り落ちていた.
  34. 小夜は、具体性を排除したのだ.

細く、弱い声:「これは、我が愛しむ子、我が悦ぶ者なり. 」

 

小夜が区画:闇に滞在した期間.時系の乱れも.一日のようでもあったし、何年かのようでもあった.

 

 

 

散らされた闇の向こうに、夜が連なっていた.

小夜は、夜の中に小さなプレートを見つけた.

プレートには、小さな文字で “ 尋ねる者がたどり着く町 ” と書かれていた.更に小さな文字で何か書かれていたが、夜の中では読むことができなかった.

 

 

 

 

 

尋ねる者がたどり着く町.

 

 

 

小夜、[ 尋ねる者がたどり着く町 ] へと入場.

 

その町は、乾いた夜に覆われていた.小夜の持ち物は、一本の虫ピンと、葬儀の招待状だけであった.指先は、すでに虫ピンによる多くの刺し傷に覆われ、うっすらと血が滲んでいた.

町のあちらこちらに、がい灯が立っていた.
がい灯の間隔は一様ではなく、※ある所にはまとまって、ある所は散らばって、光源の高さも強さも一定ではなく、それは小夜にとっては、秩序の失われた状態であり、混乱または混沌であって、小夜は不安、※不愉快、を覚えた.
がい灯の明かりは、その足元だけを照らし出していた.地面に落ちる明かりの範囲は、ほぼ正円.半径は当時の小夜の歩幅で10歩、或いは8歩、小さいもので3歩.
遠近の基準となるものは何もなかったが、遠くの明かりは小さく、近くの明かりは大きく、それは小夜にとっては秩序であり、わずかの安心感を覚えた ※不愉快さは解消された
小夜は、灯の数を数えた.1、2、3・・・・・9、10、11、遠くで列車の走る音が聞こえた、伴い振動、夜がわずかに揺れた.振動で数が乱れたので、小夜は灯の数を数え直した.1、2、3・・・・・7、何度も数えたが、数えるたびに数が違ったので、小夜は数えることをやめた.
町はどこまでも広がっているようではあったが、夜の中では何も分からなかった.

小夜の視界を遮るものは何もなく、視界には夜の中に立つがい灯のみであった.

 

ホテルへの到着、ホテルの女中.

 

小夜は一軒のホテルに到着した.

ホテルである事を示す何も掲げられてはいなかったが、小夜はホテルに到着したのだ.

ホテルでは、一人の女が小夜を迎えた.

女は、小夜に、小夜、あなたは何を求めてこの町に来たのか. と言った. 小夜「私は、私の葬儀場を探しているのです.私の祭壇を探しているうちに、この町にたどり着いたのです.私の葬儀場が何処にあるのか、知りませんか. 」

小夜は女に、葬儀の招待状を見せた.女は文面を何度も読み返し、そして、この町には一匹の蛇がいて、彼ならば何でも知っている.蛇ならば、あなたの祭壇の在り処を知っているかもしれない.と言った.

女は小夜の血の滲んで傷に覆われた指先を見つめ、何かを言ったようであったが、夜なので、小夜には分からなかった.

そして、あなたの祭壇が見つかるまでこのホテルに宿泊すればよい.あなたのために部屋を一つ準備してあるから、遠慮せずに、気が済むまで、あなたの葬儀場を探せばよい.と言った.そして「あなたは、大切なお客様なのだから. 」と言った.

そして、女は、こう付け加えた.「私は、あなたの女中だから、何でも遠慮せずに、私に言えば良い.私は、あなたの女中なのだから. 」と.

ホテルの女中は小夜に、※念を押すように、あなたの部屋は既に、準備されているので、案内すると言った.「小夜、あなたの部屋は、初めから、準備されているのだ. 」と.

 

ホテルの女中、小夜、部屋への案内、入室を禁じられた部屋.

 

ホールの奥には、螺旋階段があり.見上げると何処までも伸びているようだった.ホテルの中にも夜が入り込んでいたので、階段の終わりは見えなかった.

階段の向こうに扉があった.女中は、扉を指さして言った.あなたは、このホテルを自由に使って良いが、その扉を開けてはいけないし、その中に入ってもいけない.と.そして、あなたが死ぬことがないように.と付け加えた.

女中と小夜は、螺旋階段を何度も回り( 1回、2回、3回・・・9回、10回、11・・・43、44、45、46・・・91、92、93、94・・・最初、小夜は回った数を数えていたが、遠くで列車の走る音が聞こえた、伴い振動、振動が数を乱したので、数が分からなくなった.小夜は数えることやめた.)ある階で廊下に出ると、女中は目の前の扉を指さして、ここがあなたの部屋だ.と言った.

※廊下は左右何処までも伸びているようで、廊下の両側には廊下の両側にはいくつもの部屋が何処までも並んでいるようだった.それはまるで、初原の細い道の両側に道に沿って並ぶ戸建ての住戸を思い出させたし、蛇潜りの寄宿棟をも思い出させた.但し寄宿等は廊下の片側であったが.

※下を見ると、ぐるぐると円弧を描いた螺旋階段は、蛇に例える、立体活動、※後で記述の事.

 

小夜の部屋.

 

部屋はとても狭く、小さなベッドと引き出しのついた小さな机が置かれていた.小さな窓が一つ、カーテンはなく、外に立つがい灯のあかりが部屋に入り込んで、僅かに室内を照らし出していた.

壁は全面壁紙に覆われており、それはとても古いようで、何かの絵柄が施されていたが、夜の中では分からなかった.一部が剥がれ、風もないのに、ぱたぱたと音を出してはためいていた.
遠くで列車の走る音が聞こえた.列車が走るたびに、振動が建付けの悪い窓枠をがたがたと揺らしていた.
小夜はポケットから、虫ピンを取り出した.青色のガラスの飾りは、薄暗い場所で、より青を際立たせているようだった.小夜は、綺麗だと思った.
小夜は、針を指先に刺した.ちくっという痛みが初原の記憶を集めた.それは、具体性をもって視覚に訴えかけるものではなかったが、それはそれであると分かった.それらの記憶は、几帳面に順序を守って配置されていた.小夜は秩序が守られている事に安心した.
小夜は、虫ピンと、葬儀の招待状を机の引き出しに大切にしまった.

虫ピン 引き出し 飾り
指先一面にできた多くの刺し傷がとても痛かったが、小夜はとても疲れていたのでベッドに横になると、すぐに眠りについた.
※ベッドに関する記述.※ベッドは、当時の小夜の体躯で、ベッドは、空地、座標として扱われるか? ベッドは小夜のベッドであった.

 

目覚めて、螺旋階段を下り、ホールへと下りると、女中が小夜を待っていた.ホテルの中は依然として夜だった.

女中は、蛇の棲み家の場所が記されたという一枚の紙切れを小夜に渡した.小夜には、曲がりくねった線が何本も書かれただけの落書きのようにも思えた.蛇の棲み家を示す印もなく、すべての線は青色のインクで描かれ、線が紙の上で蠢いているようで、気持ちが悪くなった.女中は小夜に、あなたは、この地図をたどることもできるし、たどらない事もできるが、どちらにしても、あなたはたどり着くべき場所にたどり着くのだ、と言った.

女中は、小夜に青色のコートを渡して、この町では、コートを着なさい.と言った.コートを着ることは、あなたにとって良いことだし、今は必要ないにしてもいずれ必要となるだろうし、場合によってはすぐに必要になるから.この町においては、すべてあなた次第で、但し、どちらにしてもあなたに選択する権利は与えられてはいないのだ.と言った.

コートの生地は、薄く、水気を通さないようなもので、生地と生地が擦れ合うと、かさかさと音がした.

女中は、青色のコートを着た小夜に、「青のコートはあなたによく似合う.あなたのためのコートなのだから. 」と言った.

 

小夜は、地図と葬儀の招待状をコートのポケットにしまい、蛇の棲み家へと向かった.

ホテルの外は依然として夜だった.
歩を進めるごとに、コートの生地が擦れ合う音、かさかさという音が、乾いた町に、響いたか?夜の特性
歩いても歩いても蛇の棲み家にはたどり着かなかった.小夜の視界には、外灯のみであって、一つのがい灯が地面に落とす明かりは、常に一つであり、その範囲は交わることなく、見かけは、互いに干渉することもなかった.
誰にも会うことはなく、時折遠くで列車の走る音が聞こえた.伴い振動.

 

基準が失われていた.

どれ程歩いたのだろうか.突然、空気が変わったと感じた.どのように変わったのかの記述は必要か?

 

蛇の棲み家.遠く、隔たりなく、隔たれた場所で、

 

ある一つの気配、夜が変わった、ずるずるとした音が響いた.温度の変化、熱量の変化を感じた.小夜は、[ 蛇の棲み家 ] にたどり着いたのだと感じた.

姿を伴わない乾いた声が響いた. 「いまだ小さき夜よ、お前は何を求めて私のもとを訪れたのか. 」

小夜は答えた.「私は、私の葬儀場を探しているのです.ホテルの女中さんが、あなたに聞けば何でも教えてくれると言ったので、あなたを探していたのです.あなたを探しているうちに、ここにたどり着いたのです.私の祭壇が何処にあるのか教えてくれませんか. 」

声が答えた.「いまだ小さき夜よ、お前は目を閉じなくてはならない.お前の夜は、いまだ小さいがゆえに、数を数えること能わぬがゆえに. 」

小夜は、声に従って目を閉じ、次の言葉を待ったが言葉はなかった.

「私は、わたしの祭壇を・・・、ホテルの女中さんが、あなたに聞けば教えてくれると・・・.」

小夜は耳を澄ましたが、静寂は幾重にもわたり、小夜に言葉は与えられなかった.但しその静寂は、彼が最初の五日間で創造した静寂 ・→とは異なっていた.

小夜は「また来ます. 」と言うと、蛇の棲み家を後にした.

 

[ 蛇の棲み家 ] からホテルへの帰路、進行方向右手に空地が広がっていた.

 

ホテルへの帰路、空地、不可解な人たち.

 

空地も夜に覆われていたので、小夜には広さも分からなかったし、境界も分からなかった.

空地には、幾人かの人たちの姿があったが、夜の中では人数を数えることもできなかった.何かの作業をしているようではあったが、やはり、夜の中では何も分からなかった.

 

ホテルへの帰着.

 

ホテルでは女中が待っていた.

女中は、小夜に、自分の祭壇は見つかったのか、と聞いた.

小夜は、声は聞こえたが、会うことはできなかった、葬儀場の場所も教えてくれなかった.と答えた.

女中は、とても長い間あなたが戻らなかったので、皆があなたを心配していたのだ、てっきり逃げ出したのかと思った.と言うと、甲高い声で笑った.女中は、小夜の手を見て、何か言った.しかし小夜には何を言ったのかは分からなかった.指先を覆っていたあれほど多くの傷は塞がっていた.

小夜は、女中が、誰かに、或いは何かに似ていると思ったので、自分の記憶を遡ったが、何も思い出せなかった.

小夜は、自分の部屋に戻ろうと、螺旋階段を上がろうとした時、かさかさと音が聞こえた.それは開けてはいけないと言われた扉の向こうから聞こえているようだったが、小夜がそちらに意識を向けると音は止んだ.

夜の中では、すべてがそのようであるようだった.

 

小夜、小夜の部屋、形象なき記憶、ある兆候、

 

小夜は、部屋に戻ると、机の引き出しから、虫ピンを取り出し、指先に刺した.
ちくっというわずかな痛みと共に、記憶が順序正しく、秩序を保ちながら、小夜の脳裏に現れた.すでに小夜からは形象は失われていたので、(小夜自身が形象を破棄したので、) 形象は伴ってはいなかったが、小夜にはそれはそれであると判断がついた.
初原での父との蝶取り、標本づくり、優しかった母との標本の焼却、母とのお話、母はいつも指先で、小夜の手のひらや頬に何かを描いていた.母の消失、母は突然いなくなり、別の母が現れた.すり替わった母の自慰、すり替わった母の自慰から記憶の乱れが生じた.どのように乱れたかの記述.    
小夜は、再び針を指先に刺した.ちくっという痛みで、記憶の乱れは回復し、記憶は順序を守り、きちんと整列して、再び現れた.※記憶は、今現在まで連続していた.連続はその先まで続く? それらは、形象は伴わなかったが、小夜には、それはそれであると判別はついた.
正しい順序、それは古いものから現在に最も近いものへと、その整列は今現在で終わるべきではあるが、と、その先については、さよはなにもわからなかった.夜の中では、そのようであるのだと思った.

それはそれであるという事の定まりは、小夜にとっては、揺るぎのない秩序であり、小夜は安心感を覚えた.
小夜は、虫ピンを机の引き出しにしまうと、眠りについた.小夜は疲れていた.

 

狭く暗い引き出しの中で、虫ピンは、

虫ピンが変わったのか?変容の記述は?

 

目覚めると、小夜は女中に見送られて、再び [ 蛇の棲み家 ] へと向かった.

やはり地図は、コートのポケットで蠢いているように感じられた.

歩を進めるたびに、コートの生地が擦れ合い、かさかさと言う音だけが、乾いた夜の町に響いていた.

遠くで列車の走る音が聞こえた、伴い振動.夜がわずかに揺れた.※夜は微動だにしなかった.

 

[ 蛇の棲み家 ] では、わずかな温度の変化.※やはりずるずると何かを引きづるような音がしていた.するか?しないか?

小夜は、蛇との約束通り、目を閉じて蛇に幾度となく語りかけた.「わたしは、わたしの祭壇を探しているのです. 」「ホテルの女中さんが、あなたに聞けば分かるからと言っ・・・・・.」返答はなかった.

幾日、幾年に渡る静寂、但しその静寂でさえ、彼が最初の五日間で創造した静寂 ・→とは異なっていた.

小夜は蛇の言葉を待ち続けたが、やはり小夜の葬儀場については何も語られなかった..

小夜は、「また、来ます. 」と言うと、蛇の棲み家を後にした.

 

小夜は、町を歩きながら、これまで経験した様々なことを思い出していた.

蝶の採集、父、母、すり替わった母、魚釣りの少年、彼はあの時、寂しそうな顔で何を言おうとしたのか、蛇潜りへの列車の中、女主人、塗師の女、彼女は蛇潜りに飲み込まれていったのだ.

それらからは形象は失われていたが、小夜にはそれはそれであると分かったし、寧ろ、小夜には分かりやすかった.

小夜は知らなかった.

思い出せる事と思い出せない事の両方で小夜の記憶は構成されていて.思い出せない事は、小夜の知らない事と共にあって、行動を起こす機会を窺っていた事を.私の無能を語るのだ.

 

突然、空地.今度は進行方向左側に現れた.

空き地には、人影があり、やはり何かをしているようではあったが、やはり夜の中では何をしているのかは分からなかった.

 

ホテルに戻ると、女中が待っていて、あなたの祭壇は見つかったのか、と聞かれた.

小夜は、「蛇は何も教えてはくれなかった.」とだけ答えた.

 

自分の部屋へと、螺旋階段を上ろうとすると、やはり、扉の向こうから、かさかさと音が聞こえた.

やはり耳を近づけると音は消えた.

小夜は、疲れていたので、部屋に戻ると、すぐ眠りについた.

 

目覚めると蛇の棲家へと、

1往復、2往復、3往復・・・50往復・・・、最初、小夜は、蛇の棲み家に通った数を数えていたが、遠くで列車の走る音、伴い振動.振動が数を乱したので何度往復したのかもわからなくなっていた.

 

小夜は回数が分からないまま、ホテルと蛇の棲み処の往復を繰り返した.

 

女中は必ず小夜を見送った.つまり彼女は小夜の女中なのだ.

[ 蛇の棲み家 ]には、すぐに到着することもあったし、場合によっては、出発してすぐ、時には出発することもせずに、到着することもあったし、歩いても歩いても現れない事もあったが、必ずたどり着いた.

[ 蛇の棲み家 ] からの帰路、空地は、進行方向右手に現れたり、左手に現れたりした.しかし現れないことはなかったし、いつも突然現れた.

小夜は、夜とはそのようなものなのだと理解した.

 

小夜の記憶も、※思い出も、そのように、

 

異変であったし、それは、突然、何の前触れもなく訪れた. 

蛇の棲家からホテルへの帰路、小夜はいつものようにこれまでの事を思い出していた.

 

小夜、記憶、破壊、

 

魚釣りの少年は、あの時寂しそうな顔をして何を言おうとしたのか、小夜は、会いたいと思った.

遠くで列車の走る音が聞こえた.伴い振動.記憶はぱりんという音をたてて壊れた.破片は夜に消えていった.

塗師の女の事が思い出された.お姉さんは、あの時蛇潜りをきれいだと言った.それは思い出の側から小夜に訪れた.

遠くで列車の走る音、伴い振動.今度はきーんという音とともに破壊された.やはり、破片は夜に消えていった.

 

小夜はホテルの部屋に戻ると虫ピンを指先に刺した.

虫ピンには不思議な力があるのだ.

ちくっという痛みは、何かを思い出させたが、遠くで列車の走る音、伴い振動.やはり振動が記憶を破壊した.
小夜は、再び、指先に針を刺した.記憶、また振動が破壊した.

一つの痛みに対して、一つの記憶であり、その一つは、常に一つであって、それ以上のものではなかった.
繋がりを持たない記憶は非常に脆く、壊れやすかった.

 

振動で破壊された記憶は、乾いた夜の中に消えていった.

乾いた夜の中には、小夜の記憶が蓄積されていった.ばらばらになったとはいえ、

そのようにして小夜は夜を作り始めていた.

 

小夜、ダンス、

 

小夜は、記憶を求めて、虫ピンを刺し続けた.

痛みに慣れると、何の記憶も訪れなかった.

指先が虫ピンの傷で一杯になると、手のひら、手の甲、腕、常に新鮮な痛みを求めて虫ピンを刺し続けた.

そして小夜は、疲れ果てて、知らぬ間に、痛みの中で眠りについていた.

 

記憶の破壊は多くの日数、最初小夜は破壊された回数を数えていたが、振動が数を乱したので、分からなくなったので、数を数えることをやめた.

虫ピンによる傷穴の数は、破壊が行われた回数と同数である.

 

小夜は、蛇潜りへと変容しようとしていた.但し、まだ多くの事が欠如していた.

 

小夜、ダンスだ、備えろ、

 

夜、小夜の部屋、対話、女中、

 

蛇の棲み家から部屋に戻り、いつものように、それは習慣になっていた、或る夜、いつもの夜のように、部屋で一人、記憶を求めて指先に虫ピンを刺していると、傍らに女中がいた.

別コンテンツとしてまとめる必要は?

  • 異様な対話.
  • 脱皮のイメージ.
  • 女中は多くの事を語る.それは小夜にとってはとても重要な事柄である.が、小夜には理解できない.小夜が理解できようができまいが、それは、それほど重要なことではないのだ.

 

 

目が覚めると、部屋には女中の姿はなく、小夜は、夢か現実なのか分からなかった.

やはり、女中に見送られて再び蛇の棲み家へと.

やはり、[ 蛇の棲み家 ] では何も語られず静寂が支配していた.

やはり、小夜は、「また来ます」と言って蛇の棲み家を後にした.

やはり、空地、突然、作業員

 

孤独と不安が小夜を取り巻いていた.相変わらず何の成果も得られないまま、ホテルへの帰路、沼があった.

 

沼、大地、

 

数えきれないほどの往復の中、小夜は初めて沼を見た.

いつも、そこにあり、ただ小夜の目に入らなかっただけなのかも知れなかった.夜の中では、それさえも分からなかった.

何処からも水が入り込まず、地中から湧いているのかも知れなかったが、何処へも流れ出ないようだった.それはそこにあった.

岸から何か得体の知れないものが伸び、水面を覆っていた.それは草かも知れないが、夜の中では分からなかった.

水は止まっていた.水は身動きが取れないように思えた.

小夜は、夜に閉じ込められた自分自身のようだと思った.

 

小夜は足元の地面に指先で何かを描いた.

子供の頃、初原で優しかった母を待つ間、裏庭で地面に何かを描いて遊んでいた事を思い出した.

小夜の指先は多くの傷で覆われていたので、土に触れると痛みを感じたが、何か心地良かった.

細い指先で何か意味のないことを書いては、手のひらでさすって消し、また書いては、

 

小夜の指先の動きに、地面は、快楽を感じた.

大地は小夜を覚えていた.小夜の指先を覚えていたのだ.

大地は常に小夜とともにあり、小夜は大地とともにあった.

但し、小夜は、大地の事など知る由もなかった.

 

小夜、

  

遠くで列車の走る音、伴い振動.警笛、いつもとは異なる振動、振幅が突然変化した、

振動は乾いた夜に亀裂を走らせた.それは小さく、

次の瞬間、亀裂をこじ開けるようにして声が小夜に訪れた.それはまるで、蛇潜りの昼、のように.ぬるっと、ねっとりと、

 

声、或いは音.

 

いまだ小さき夜よ、書き記せ.お前自身が予め記された者であるように、お前が書き記したことがそのようになる.

いまだ小さき夜よ、お前はお前の夜を書き記せ.

いまだ小さき夜よ、祭壇を求める者よ、愛される者よ、愛することをいまだ知らぬが、いずれ愛となる者よ.

お前はインクがないと言ってはならない.お前にはお前の血があるではないか.※お前の体液があるではないか.

お前の血とは何か.

お前の体内に流れる血とは、“私”ではないか.私の牙でお前の血管を噛み破り、お前の皮膚にお前の血を溢れさせよう.

※私はお前の身体に巻き付き、お前の股間に体液を溢れさせよう.

いまだ小さき夜よ、お前はペンがないと言ってはならない.お前にはお前の指があるではないか.

お前の指とは何か.お前の身体とは、“私”だ.

いまだ小さき夜よ、お前は何を記すのかと言ってはならない.お前が書き記すことは、この“私”だ.

いまだ小さき夜よ、この“私”とは誰だ.お前自身ではないか.

いまだ小さき夜よ、いまだ小さいがゆえに、夜を孕む者よ.

お前は紙がないと言ってはならない.お前にはお前の肌があるではないか.私はお前の皮膚に徴を埋め込もう.私は徴を繋ぎ、そしてお前自身を純一の徴※証しとしよう.

 

いまだ小さき夜よ、快楽を貪る者よ、淫靡なる者よ、

徴は、お前の皮膚の上で疼き、お前はお前の指で疼きを鎮める.

 

小夜、記述、

 

このことがあってから、声に従い、小夜は多くの事を記述し始めた.

ある一つの記憶から、それは始まった.記述の起点は?蝶取りか.魚釣りの少年か.

小夜は初原の記憶をたどらない.父との蝶取り、標本づくり、具体的な形象は伴わなかったが、次々とペンは進んだ.何かの記述によって忘れていた記憶はペン先に集まってきた.そして記述とともに消えていった.

それはありとあらゆる記憶であり、小夜は、小夜に訪れたものをすべて記述した.

訪れないものもあったのかもしれないが、訪れたものが小夜にとってのすべてであった.今訪れなくても、いずれ訪れる.

形象を伴わない記憶は、時には記述しづらいこともあったが、大抵は記述しやすかった.

銀色に光り、鋭く尖ったペン先は、虫ピンにも似て何か不思議な力を宿しているようだった.

小夜が書くたびに、カリカリという乾いた音が夜の中に響いていた.

乾いたカリカリ、音は、父を思い出させた、標本、カリカリ

 

なくならないインク、なくならない紙、擦り減らないペン先、蛇の棲み家に向かう途中、ホテルへの帰路、ホテルの部屋で、小夜がこの町に在る間、ありとあらゆることを、ありとあらゆる場所で書き綴った.

指先の痛みは多少筆記の妨げにはなったが、しかし小夜は、####

町のあちらこちらに立つがい灯は、小夜の筆記を助けた.

 

 

蛇の棲み家、対話.

 

小夜の記述によって、これまで沈黙を通してきた蛇が語り始めた.即ち、大きく、ゆっくりと蜷局を解き、複雑な立体活動を始めた.

蛇は小夜に語り始めたのだ.語るだけだったにしてもである.

事態は大きく動き出した.それが好転なのか、悪化なのかは分からないにしてもである.

 

どちらにしても、選ぶ権利は、小夜には、元から与えらえれてはいなかった.

その声は、小夜のコートの中にするりと入り込み、小夜の皮膚とコートの生地、

その声は、太く、小夜を拘束するように、途切れることなく発声された.

小夜は、声に閉じ込められた.※蜷局のように最初と終わりは、

 

いまだ小さき夜よ、いまだ小さいがゆえに、数えること能わぬ者よ.

いまだ小さき夜よ、その眼を充血させるものよ.

いまだ小さき夜よ、血に体を伏せ、その大地の振動に酔う者よ.

いまだ小さき夜よ、傷を貪る者よ、傷穴は互いに引き合い、

いまだ小さき夜よ、夜を重ねる者よ、いまだ小さき夜よ、抗う者よ.

いまだ小さき夜よ、偽りの愛を語る者よ.語れ、偽りの愛を.

いまだ小さき夜よ、騒めきを集める者よ、お前の身体上で、音は重なり、溢れ、大波のように、お前を飲み込む.

いまだ小さき夜よ、すべては小さく、大きい.

いまだ小さき夜よ、半径を求める者よ.お前の膣から放たれる直線、

いまだ小さき夜よ、平衡を乱す者よ.

いまだ小さき夜よ、愛を語れ.お前が語らぬのであれば、私が語ろう.

いまだ小さき夜よ、拒む者よ、お前の乳房から滴り落ちる甘き乳の香り、

いまだ小さき夜よ、異形の夜よ、異端の夜よ.お前の奪った多くの蝶たちの命が、その呻き声が、お前の足元に新たな集落を形成し、お前は集落に侵される.

いまだ小さき夜よ、香煙をまとう者よ、煙はお前の衣服から忍び込み、お前の肌に纏わりつく.

いまだ小さき夜よ、愛撫する者よ.その滴る体液で愛を語れ.

いまだ小さき夜よ、ふしだらな女から生まれた者よ.わたしの話をしよう.私とは誰だ、(小夜、僕のことは忘れろ.もううんざりだ)

 

その声は、小夜に性的な快楽を与えた、

小夜には、蛇の言っていることが分からなかった.しかし声そのものが性的であったのだ.

 

小夜「わたしは、わたしの葬儀場を探しているのです.ホテルの女中さんが・・・、ホテルの女中さんが・・・」

 

そして、静寂が訪れた.

蛇の蜷局は閉じられたのだ.しかし、その静寂は、彼が最初の五日間で創造したものではなかった.・→

小夜はいつものように、「また来ます. 」と言うと蛇の棲み家を後にした.

 

小夜、即ち、ダンス.

 

ホテルへの帰路、蛇の声は小夜の身体にとどまり、まとわりついていた.去らなかった.

去りたかったけれども、去れなかったのか?

遠くで列車の走る音が聞こえた.伴い振動.振動が声を揺らした.振動で更に動きを

コートの中、生地と皮膚のその間、それは、地図に描かれた無数の線のように蠢きながら、小夜の身体を這いずり回っているようだった.

遠くで列車の走る音、警笛、伴い振動.

声は振動で更に活気を得たように幾重にも分かれ、身体中に広がり、もつれ合いながら、重なり合いながら、何か別の声を作っているようにも感じられた.

皮膚上で蠢く声は、小夜の皮膚に、それは快楽的であった.

その快楽とは、性的な快楽である.

 

紅の声は、ホテルと蛇の棲家の往復運動に一項目を加えた.即ち自慰、即ちダンス、

 

小夜、部屋、声、自慰、

 

部屋に戻っても、蛇の声は小夜の身体上を蠢いていた. 

狭い部屋の中で、行き場を失った声は、更にその動きを複雑に入り込ませているようでもあった.

遠くで列車の走る音、伴い振動.建付けの悪い窓枠は、ガラスをがたがたと音を立てて揺らしていた.

  • 蛇の声は、声は極めて快楽的である.
  • 小夜は、身体の疼きを感じ、小夜は自ら快楽を求め、小夜は、声に手を伸ばし、指先で声に触れた.
  • 小夜が手を伸ばし、声に触れると、※小夜の指の動きに対する声の反応.
  • 声を掴かむ.声は震えていた.それはまるで、初原で魚釣りをしたとき、竿が震えていたように、ぶるぶると震えていた.
  • 小夜は、初原で見たすり替わった母の自慰を思い出していた.行為の真似
  • 小夜の細い指先、指先には無数の傷、触れる、撫でる、掴む、擦る、
  • 痛みを感じたが、勝った
  • 声との戯れ.
  • 小夜の身体を這いずり回りだした.
  • 小夜は快楽を感じた.
  • 快楽によって、小夜の身体は、湿り気を帯び始めていた.

小夜の自慰によって、湿り気は、ぬめりへと変化した.

ぬめりによって声は横滑りを始めた.※粘着きは

そして、小夜の知らない事が訪れた.

 

横滑り、小夜の知らない事.

  • それらは、形象を伴ってはいなかったが、小夜に何かを想起させた.殺人、彼は殴り殺された、追放、裏切り、多くの足音、馬のわななき、蹄・・・、
  • 横滑りによって、本来はともに非ざる事たちが、ともにいることを許されたのである.あるいは経過、
  • それらは小夜の知らない事である.それらは知っていることに隠れて、向こう側から小夜に訪れた.
  • 知らない事は知っている事と同化して、時には飲み込まれていった.強いものは弱いものを飲み込む.線状のものは線状のものを飲み込むことをしやすかった.
  • そして知らない事は事実となり、事実は、小夜の身体上を蠢き、傷穴をこじ開けて小夜の身体内部へと入り込んだ.それは力であった.
  • 自分の知らない事は小夜の身体上、そして身体内部へと広がった.それは混乱であり、混沌であり、無秩序であり、小夜は不快感を覚えた.寧ろ、恐ろしさでもあった.
  • 小夜は、自分の知っている事を求めて、即ち、行列する集落の母、魚釣りの少年、父との蝶取り、蛇潜り塗師の女、それら連続する記憶を求めて指先に針を刺した.
  • 小夜の身体はすでに多くの傷で覆われていた.
  • 新しい箇所に虫ピンを刺すと、その痛みは新鮮であり、瑞々しく、想起される記憶も、秩序正しかった.
  • 小夜は体のいたるところに虫ピンを刺し込んだ.
  • 知らない事は、その傷穴から小夜の体内に入り込んだ.
  • ちくという瞬間的な痛みは、小夜に知っていることを想起させたが、瞬間的な、瞬間的に消失、その痛みに知らないことがまとわりついてきた、

小夜は、疲れ果て、知らないうちに眠りについていた.

 

小夜、

まだ欠落しているものは数多くあった、とはいえ、たどたどしく、とは言え、蛇潜りへの変容は進行していた.

小夜、まだだ、

 

小夜の自慰によって、新たに1項目が追加された.即ち、夢.

小夜は眠りにつくと夢を見た.

 

小夜、夢、

  • 夢の中では、インクの匂いが立ち込めていた.
  • 小夜は、夢の中で初原を思い出していた.夜、蝶の標本づくり.懐かしい香りである.小夜は、蛇の系譜にあり、その性質上、匂いに対しては極めて敏感である.
  • カリカリとした音が聞こえた.小夜は、父が台紙に何かを描いている音だと思った.
  • 小夜は、父と蝶の標本を作っていた.父の声が聞こえた.「小夜、もう少し左だ、小夜、もう少しやさしく、翅が壊れてしまう.小夜、それじゃあ飛べない、小夜、違う、美しくない、小夜、小夜、小夜、・・・、」
  • そして父は、「小夜、覗いてごらん. 」と言った.
  • 小夜がファインダーを覗くと、台紙に固定されている自分の姿が見えた.
  • シャッターが切られた翌日には、焚火炉で焼かれるのだ.小夜は怖くなった.
  • 小夜は逃げようとしたが、虫ピンで体が台紙に固定されていたので身動きが取れなかった.
  • 「小夜、逃げなさい. 」優しかった母が、虫ピンを抜いて小夜を逃がしてくれた.
  • 手招きする女の姿が見えた.小夜は、塗師の女だと思った.
  • 小夜は手招きに従って走り続けた.夢の中にも夜が入り込んでいたので、小夜はどこを走っているのかも分からなかった.
  • 小夜は疲れ果てて、ある場所で横になって体を休めた.
  • つるつるした感触、丁度背中の中央あたりに、一箇所ざらざらした感触があった.それは開いたり閉じたりしているようだった.
  • 小夜は、蛇晒に横たわっているのだと感じた.

突然の強い光が小夜を突き刺し、小夜は目を覚ました.

夢の中で目を覚ましたのか、現実に目を覚ましたのか、分からなかったが、夢と現実の境界についての記述、夜なので、空地の境界についての記述との関連、夢であったと気が付いた.

そこは、ホテルの部屋のベッドの上であった.

こうして、夢は夢の側から小夜に訪れ、夢は始まった.

 

小夜、即ち、ダンス.

 

目覚めると、女中に見送られて蛇の棲家へと

 

蛇の棲み家では、蛇は更に語り続けた.

いまだ小さき夜よ、夜を塗り重ねる者よ.僅かの隙間から言葉が生まれる.言葉を作るのは、言葉を繋ぐのはお前ではないか.お前の円弧で繋げ.

いまだ小さき夜よ、多くの時を経る者よ.いまだ小さき夜よ、希望なき夜よ.

いまだ小さき夜よ、選択を奪われた者よ.故に、お前からは同時に希望も奪われている.

子を産まぬ者よ、子宮の閉じられた者よ、胎を閉じられた者よ、私は、お前の膣からお前の体内へと忍び込みお前の内臓を食いちぎろう ※テキストを生む テキストを孕む者 

いまだ小さき夜よ、欺きを語る者よ(好む者よ)嘘つきの系譜を、偽りの系譜を継ぐ者よいまだ小さき夜よ、お前はお前の闇の中に何を見たのか.お前の闇を語れ.

お前が破壊した闇を.破壊する者よ、

夜を徘徊する者よ.さまよえ、

小夜「わたしは、わたしの祭壇を探しているのです.ホテルの女中さんがあなたに聞けば何でも教えてくれるからと・・・」

いまだ小さき夜よ、闇を拒む者よ.お前はお前の闇を拒絶した.何故だ.何ゆえに.闇はお前を取り囲み、お前は闇に何を見たのだ、語れ、言葉に巧みな者よ、言葉に不慣れな者よ、欺きを語る者よ、裁きだ、裁きだ、罪に定めろ、罰を与えろ、(大勢の声、ざわざわと、徐々に徐々に大きくなる) 一人、二人、いまだ小さき者よ、その数は場を震わす者よ、変容する者よ、変容を促す者よ、変容を遮る者よ、半径を紡ぐ者よ、半径を孕む者よ、半径を導く者よ、行列する者よ、行進する者よ、いまだ小さき夜よ.大地を耕す者よ、お前は罪を背負った.お前は大地を罪で穢すのか.不潔な女だ.

 

小夜「わたしは、わたしの葬儀場を探しているのです.ホテルの女中さんが・・・、ホテルの女中さんが・・・」

蛇の声が途切れ、静寂.

小夜はいつものように、「また来ます」と言って蛇の棲み家を後にした.

 

ホテルへの帰路、いつものように空き地は、進行方向左手、或いは右手に突然その広がりを現した.

やはり、夜の中では何も分からなかったが、空地の様子が大きく変わっていた.

何かが持ち込まれているようだったが、空地から何かが持ち出されてはいないようだった.

 

※ホテルに戻ると、いつものように女中が小夜を迎えた.

女中の顔は、※さらに、活気づき、目は輝き、皮膚は、

階段の向こうの扉、音、

 

部屋に戻ると、小夜は体に虫ピンを刺し続けた.蛇の声、知らない事、虫ピンによる秩序の回復、傷、傷穴からの挿入、

痛みと快楽、その二つは常に対となっていた.同時に夢の訪れの条件でもあった.

 

小夜、二度目の夢、

 

小夜は、再び夢を見た.夢は前回から続いているようだった.

白い昼と黒い夜が交互に現れた.小夜は、夢の中で、蛇潜りを思い出していた.
多くの足音が、遠くからこちらに近づいてくるようだった.その数はとても多く、無数に思えた.但し、無数ではなかった.
ある声が響き渡った.「この神聖な場所に横たわる者は一体何者だ.身体中傷で覆われ、皮膚のただれたこの者は一体誰だ.快楽を求める、この淫靡なるものは一体誰なのか、この不吉な者を神聖な場所から連れ出せ.この者はこの神聖な場所には相応しくない. この穢れた者に相応しい場所に連れ出せ. 」
小夜は外部から自身に加わる力を感じた.力は一つであったり、複数であったりした.
小夜は、別の場所に移されたのだと感じたが、夜の中ではどこであるのか分からなかった.
小夜は夢の中であたりを見廻したが、夢の中にも夜が入り込んでいたので分からなかった.
ある声が小夜を捉えた.「いまだ小さき夜よ、お前は目を閉じなくてはならない.お前の夜は、いまだ小さいがゆえに、数を数えること能わぬがゆえに. 」
小夜はその声に従って目を閉じた.
眼を閉じると、そこに広がる静寂を感じることができた.しかし、静寂ではあったが、彼が最初の五日間で創造した静寂とは異なっていた.

 

小夜、まだだ.

 

遠くで列車の走る音が聞こえた.伴い振動.
小夜はある気配を感じた.夢の中では、何の気配かは分からなかったが、それは確かに何かの気配であった.

一つであるのか、一つ以上であるのかの判断.
小夜、蛇である、その性質上、特性、匂い、振動即ち音、温度、この三つの要素で場の判断、場に関する情報の獲得、を行おうとした.
しかし、夜の中では何も分からなかった.夜という場では、蛇の特性は、ほかの項目との関連

 

即ち、ダンス.小夜、

 

目が覚めると、やはり、そこはいつものホテルの部屋であった.

何かの夢であることは小夜にも分かったが、そもそもおかしな物語の中で見る夢であり、夢の中にも夜は入り込んでいたし、そして目を閉じていたので、何についての夢であるのかも、どのような夢であるのかも、小夜には何も分からなかった.

但し、目が覚めた時、身体には、痛みと快楽が残っていた.快楽と痛みとは、常に対になっていた.

快楽と痛みによって夢は訪れ、快楽と痛みによって、夢の在りか?

 

このようにして、毎夜、夢は夢の側から小夜に訪れ、小夜に理解を与えることなく、理解を助けることもなく、夢は続いた.

小夜は、快楽と痛みを体に携えて、蛇の棲み家へと向かった.

 

1、2、3・・・100・・・800・・・・・3000・・・5000・・・10,000・・・20,000・・・10,000,000、最初、小夜は、夢を見た回数を数えていたが、途中で振動が数を乱したので何度夢を見たのかも分からなくなってしまった.小夜は回数が分からないまま、夢を見続けた.

しかし身体に残る快楽と痛み

小夜が夢を見た回数は、自慰の回数と同数である.

 

指先はもとより、小夜の身体の多くの部分は、刺し傷で覆われていた.

指先の痛みは、メモを取る事さえままならないほどであったし、痛みは全身に渡り、歩行も困難なほどであり、それでも小夜は蛇の棲家へと向かった.そんな時は、やっとたどり着いた蛇の棲み家では、蛇は言葉を発するどころか、蛇はその気配さえ現さなかった.空き地では、人の姿はあったが、作業も停滞しているようであった.小夜を出迎える女中の顔も生気を失っているようだった.夢も訪れなかった.

 

しかし、小夜がメモを取り始めると、その停滞は回復された.

蛇は語り、空地では作業員たちが慌ただしく何かを行っていたし、ホテルで出迎える女中の目も妖しく光り、皮膚も賑やかさを回復.

そして夢が訪れた.

 

小夜はある円環に陥っていた.即ち、ダンス.

 

小夜、円環.

  • 小夜が記述
  • 蛇は更に語り、語り続けた.それらは小夜の理解を助けることもなく、何かによって補われることもないままに語られ続けた.
  • 遠くで列車の走る音、伴い振動.蛇が語るごとに、その声は小夜の身体の表層で蠢いてた.
  • ホテルへの帰路、遠くで列車の走る音、伴い振動.振動により蛇の声は、枝分かれし、
  • 進行方向、右手、時には左手に広がる空き地、不可解な人たちによる不可解な作業.空地は慌ただしく、作業は進行し、
  • 突然現れる沼.水は止まり、
  • 小夜の帰りを待つホテルの女中.「小夜、あなたの祭壇は見つかったの、」 日ごとに鮮やかさを増す女中の皮膚.
  • 部屋では身体上を蠢く声.
  • 自慰、快楽、身体の滑り、横滑り、多くの知らない事による、小夜の身体の蹂躙.
  • 秩序の回復のための痛み、傷、そして知らない事は傷から身体内部へと侵入.
  • 痛みと快楽は対.
  • 夢を招いた.小夜はよく分からない夢を見続けた.
  • 目覚めた時、小夜の身体に残る快楽は日ごとに強くなっていくようだったが、小夜は絶頂を経験することはなかった.
  • そして、また蛇の棲み家へと.
  • 蛇の棲み家、空き地、ホテルの部屋、自慰、傷、夢、再び、蛇の棲み家、ホテル、部屋、自慰、傷、夢、蛇の棲み家、いたるところでのメモ.
  • 沼は、
  • 小夜の身体は無数の傷で終われ、体躯の表層、即ち快楽.

小夜の陥った円環は多くの日数を経ても終わる気配はなかった.終わるどころか、円環は螺旋を描き、町全体へと広がっていった.

 

多くの日数、小夜はこの円環に閉じ込められていた.

小夜がこの町に訪れてから、どれほどの時間がたっていたのか?

ホテルと蛇の棲み家の往復、それが今では螺旋を描き、円環、町は、

時間の蓄積は、振動で混ぜられ、距離へと置き換えられていった.即ち1.

 

声)小夜ちゃん、小夜ちゃんには選ぶ権利はないのよ.小夜ちゃんは特別だから.

声)地のあらん限りは種蒔き時、刈入時、寒、熱さ 夏 冬 止むことあらじ 

 

小夜の身体はすでに無数の傷で覆われていた.

虫ピンを刺す場所がなくなると、小夜は傷に針を刺し込んだ.

小夜の身体は、傷でざらざらし、身体には血が滲んでいた.( 蛇の身体がざらざらしているのはこの時からだ )

傷の痛みを免れようとする本能的な動きそのものが、痛みを増幅させた.

体をよじると、傷穴と傷穴は繋がり、身体に裂け目を作った.裂け目はぱくぱくとひらいたり閉じたりしていて、何かを語る口のようでもあった.それはまるで蛇晒しの裂け目のようでもあった.

 

小夜の身体は、すでに傷自体であり、小夜はすでに [ 蛇潜り ] のようであった.

しかし、まだ、何かが欠如していた.

 

小夜、

 

空地、作業の進行.

 

蛇の棲み家からの帰り道、いつもの空き地では、いつものように不可解な人たちが、不可解な作業を進めていた.

やはり作業の内容は分からなかったが、足音の数も更に増えて、夜の中で慌ただしい動きが感じられた.

誰かが、何かを抱えているようだったが、夜の中では分からなかった.

 

小夜、

 

町の変容.

 

一見、何一つ変化のない町に思えたが、小夜の気づかないところで、少しずつ町は変化していた.その変化は小夜の変化であり、即ち、当初の予定通り計画は滞りなく進行していた.即ち、沼は、完全に閉じられた.小夜、最後のダンスだ、但し、この類の物語に起きがちな想定外のハプニングでさえも、それさえもが.

小夜は、町に立つ、がい灯の数が少なくなっていることに気付いた.明りは消えていた.
蛇の棲み家からホテルへの帰路、小夜は小さな水たまりを見つけた.水たまりは光沢のある被膜に覆われているようで、がい灯の灯が写り込んで、てかてかしていた.あたりを見廻すといたるところに大小の水たまりができていた.( 地面から浸み出た小夜の体液である. )
水たまりを覗き込むと自分の顔が映っていた.顔中皮膚はただれ、( 小夜は、虫ピンを刺す場所がなくなると自分の顔にも虫ピンを刺していたのだ )、目だけが丸く、大きく見開かれていた.瞬きをしない眼は異様で、小夜は自分が醜いと思った.
水たまりに指を入れると、ぬるっとしていた.小夜は気持ちが悪くなった.

 

小夜は空き地で作業をしている人たちの一人に話しかけた.

 

空き地、対話.

 

小夜:「あなたたちはいつも、ここで、何をしているのですか. 」

返答:「今は、測量を. 」

 

小夜:「何のために測量をしているのですか. 」

返答:「祭壇を作るために. 」

 

小夜:「誰のための祭壇を作っているのですか. 」

返答:「あなたの祭壇を. 」

 

即ち、ダンス、小夜、

 

小夜は、ついに自分の葬儀場を発見したのである.まだ祭壇は完成の途上ではあるが、

 

小夜、空き地への入場.拒絶.

 

小夜は空き地に、即ち自分の葬儀場へと入ろうとした時、小夜は、作業員の一人に制止された.

作業員「いまだ小さき夜よ、あなたは、ここに入ってはならない.いまだその時ではない.さらに求めよ.求め尽くした時、たとえあなたが拒絶したとしても、入ることなく、あなたは、ここにいる. 」※いまだ小さき夜よ、あなたにはその時を選ぶ権利は与えられてはいないのだ.

 

小夜は疲れていた.

ホテルへと戻った小夜は、階段の向こうの扉がわずかに開いているのを見つけた.ホテルの女中から「その扉を開けてはいけないし、入ってもいけない.それをした時、あなたは死ぬ. 」と言われた扉である.

小夜は扉が開いているのを確かに見たのだ.[ 初原、行列する集落 ] で裏庭の小屋の扉が開いているのを見つけたのと同じ目で.

何か、小夜の侵入を促しているようにも感じられた.

中からは “ かさかさ ” という音が聞こえたが、小夜が近づくと音は止んだ.

 

小夜、最後のメモ.

 

小夜は、部屋に戻ると、最後のメモを書き残し、密かに、注意深く、慎重に、誰にも見られないように、そして何をも見ないように、それはまるで秘密の梯子を下りるように、螺旋階段を下りて入室を禁じられた部屋へと向かった.※註 十字架の聖ヨハネ詩集「暗夜(やみよ)」より引用

小夜のメモ・→

 

小夜はホールへ下りるとあたりを見回し、女中がいないことを確認すると、扉の僅かな隙間から部屋へと侵入した. 

 

しかし、女中は見ていた.初原で裏庭の小屋へと侵入する小夜を見ていた母と同じ目で.女中は笑みを浮かべていた. ( そうだ、あの時、小夜の母は、微笑んでいたのだ. )

 

小夜、お前を待ち望む者の声だ、即ち、分け隔てられた二軸.

二軸の声)「来たか、来たのか、」「来たぞ、」「多くの時を経て. 」

 

小夜は、僅かに開かれた扉の隙間から、するすると中に入った.

 

入室を禁じられた部屋、狭い部屋.

 

狭い部屋であった.
さっきまで聞こえていたかさかさと言う音は聞こえなかった.
部屋は静寂に支配され、物音ひとつ聞こえなかった.この静寂こそが、彼が最初の五日間で創造したもので、彼はこの静寂の中で、あの愚かな悪だくみを思いついたのだ・→
狭い部屋ではあるが、歩いても歩いても向こう側の壁にはたどり着かなかった.歩いても歩いても、常にそこであった.
仄かな光が室内に漂っていたが、それが何処から来るのか小夜には分からなかった.
床には埃が積り、部屋は長い期間手つかずのまま放置されいたようではあったが、床には多くの足跡があった.足跡は、すべて同じ大きさで一人の足跡であるようだった.小夜、お前の足跡ではないか.
小夜は静寂の中で、一つの気配を察知した.その方向に目を向けるとそこには何もなかった.また別の位置から気配、やはり小夜が視線を移すとそこには何もなかった.
僅かな明かりを頼りに、部屋中を見廻すと堆く積み上げられた膨大な量の紙片が壁を覆っていた.
それはあまりにも高く積み上げられていたので、小夜には終わりのない壁のようにも思えたし、この部屋にも夜が入り込んでいたので、終わりがあったとしても、見ることはできなかった.

 

しかし、それは壁ではなかった.

 

小夜、まだだ.

 

遠くで列車の走る音が聞こえた.伴い振動.積み上げられていた紙片はゆらゆらと揺れ始めた.

振動はさらに大きくなり、紙片は一気に崩れ落ちた.

その向こうに、壁が立ち聳えていた.小夜は閉じ込められていたのだ.

紙片は狭い部屋に溢れ返り、それは小夜の背の高さをはるかに超え、小夜は紙片に埋もれていたが、紙片は無数ではなかった.

 

騒めく部屋、青の紙片、いまだ小さき夜のために、小夜へのプレゼント.

  • 紙片は、大きさは様々であったが、大きなものでも当時の小夜の体躯で、小夜の両掌を合わせた程度であった.
  • それらの紙片は、切れ端のようなものであったり、破られ、破られたが、その後張り合わされたような、もみくちゃにされたが、その後広げられたような、様々な痕跡が見受けられた.
  • すべての紙片には、青のインクで何かが書かれていた.
  • 文字は、その形をある程度はとどめていたにせよ、書き手の感情を現すかのように大きく乱れ、筆圧で紙は破れ、ある個所は荒々しく線で打ち消され、別の何かが書き加えられ、更に消され、また新しく何かが書き込まれ、それらのすべてが青のインクでなされていた.青の紙片ともいわれる所以である.
  • 小夜はその筆跡に見覚えがあった.遠い昔、初原で標本に何かを書き込んでいた父の筆跡であった.
  • すべての紙片には、共通して、同じ位置に、小さな文字で “ いまだ小さき夜のために ” と記されていた.位置は共通して紙片の下部中央、父が標本に何かを書き込んでいた位置と同じであった.
  • 振動は部屋に溢れ返る紙片を揺らし、部屋中にインクの匂いが立ち込めた.
  • 小夜は初原での父との標本づくりを思い出した.父がインク壺の蓋を開けると、電球で暑くなった部屋にインクの香りが立ち上った.
  • 小夜は、この紙片こそが、父が、裏庭の小屋で小夜のために準備していたプレゼントであることを悟った.
  • 小夜は紙片を読み始めた.青色のインクは、薄暗い部屋での所見を助けた.
  • 紙片には、小夜がこれまで生きてきた生のすべてが記されていた.小夜は、自分はこの紙片を生きてきたのだと思った.但し、小夜が経験していない事も書かれていた.寧ろ多く記されていた.小夜の知らない事も、寧ろ、小夜がこれから生きるべき生であり、即ち、ダンス.
  • 振動は、紙片を震わせ、動かし、重なり合っている紙片は摺り合いながら、かさかさと音を発していた.紙片はそれ自体生きているようであったし、まるで自分の意志で動いているようでもあった.書かれた文字に生が、意思が宿っているようでもあった.
  • 擦れ合う音は、最初は小さく、それは徐々に徐々に大きくなり、また静まり、また大きく、部屋のある一部で聞こえたかと思ったら、今度は別の場所から、それらは最初ささやきのようであったが、次第にその音色を変え、ひそひそ話のように変化し、そして叫びのようになり、轟音のようにもなり、また静寂.騒めく部屋と言われる所以である.
  • 紙片が擦れ合うごとに、インクの匂いが沸き上がり、部屋中に充満した.
  • 擦れ合う紙片は、擦れ合いながら、徐々に文字を掠れさせていっているようだった.
  • 小夜の目は、瞬きする間を惜しんで紙片を読み続けた.蛇の瞼はこの時失われたのだ.退化した.時系の乱れ
  • 小夜は一気にすべての紙片を読み終えた.小夜は文字を通して、これまでの生を再び生きた.但し、小夜の知らない生も一つの義務として生き抜かならなかった.即ちこれから生きるべき生.その二つの生は、常に対となっていた.即ち、快楽と痛み.
  • 小夜の身体は、対によって、

小夜は、物語へと変容していった.

 

声:「小夜ちゃんに選ぶ権利はないのよ.小夜ちゃんは特別だから. 」

 

香.

 

長い時間を経て、すべての紙片を読み終えた時、即ち、これまでの生を再び生き、同時に今後生きるべき新しい生を生きる準備が整った時、小夜の嗅覚はインクとは別の匂いを捉えた.これまで一度も嗅いだことのない香りだった.

  • その香りは、この部屋とは別の場所から訪れているようだった.初めて経験する香りであった.
  • 視覚が衰えた分、小夜の嗅覚は更に敏感になっていた.
  • 小夜は、二つに分かれた舌を忙しく出し入れしながら、
  • 捉えた、小夜は、奥の壁の最下部に小さな穴を見つけた.香りはその穴の向こうからこちらに入り込んでいるようだった.

 

小夜は、香りを頼りにするすると穴を抜けて壁の向こう側に出た.

小夜は穴の中で、誰かとすれ違ったような気がした.二人の人、二つの生き物、二匹の蛇、ホテルの女中と成長した魚釣りの少年であり、即ち、私だ.これまで小夜が、幾度となく感じてきたすれ違い.

 

壁穴を抜けると、目の前に壁が聳え立っていた.※夜が入り込んでいたので高さは分からない.

 

最奥の壁.

 

壁は緩やかな円弧を描いて奥へと伸びているようだった.

辺りには香煙が白く立ち込め、壁の高さも分からなかったが、

香煙の密度は一定ではなく、ある個所はとても白く、あるところは素通しで夜が見え、香煙は継続して奥からこちらへ流れ込んでいた.

小夜は疲れていたので、壁の下にその細長い体躯を伸ばして体力と視力の回復を待った.

小夜はその香りを好ましく思った.

小夜は、麻薬的な香りに包まれていた.

 

小夜、休め、休息だ、そして、最後のダンスに備えろ、

しかし、まだ早い、但し、そう遠くはない、小夜、

 

小夜は、壁の上の方に小さな穴が開いているのを見つけた.それはいかにも覗かれることを欲しているようであった.

小夜は壁をするすると這い上がり、壁穴にたどり着くと、穴に頭を突っ込み中を覗いた.

 

一つ目の覗き穴.

 

小夜は多くの年月を、一つ目の覗き穴に頭を突っ込み、中の様子を見続けた.

小夜が目にしたものは、小夜でなくては分からない事であり、メモの記述が既に行われてはいない今、私たちは、小夜が見たものを知ることはできないのだが・・・.

即ち、小夜のための覗き穴であり、わたしのために用意されたものではなかった.

 

壁は、徐々にぬめりを帯び始め、壁から滑り落ちそうになりながらもさらに奥へと進むと、もう一つ壁穴があった.

 

二つ目の覗き穴.

 

小夜は多くの年月を、二つ目の覗き穴に頭を突っ込み、中の様子を見続けた.

小夜が目にしたものは、小夜でなくては分からない事であり、メモの記述が既に行われてはいない今、私たちは、小夜が見たものを知ることはできないのだが・・・.

即ち、小夜のための覗き穴であり、わたしのために用意されたものではなかった.

 

壁のぬめりは壁全体へと広がり、何度も壁から滑り落ちながら、地面に落ちた蛇は、ぴょんぴょんと何度か跳ね返り、体勢を整えてまた上ろうとする 奥へ進むともう一つの壁穴があった.

 

三つ目の覗き穴.

 

小夜は多くの年月を、三つ目の覗き穴に頭を突っ込み、中の様子を見続けた.

小夜が目にしたものは、小夜でなくては分からない事であり、メモの記述が既に行われてはいない今、私たちは、小夜が見たものを知ることはできないのだが・・・.

即ち、小夜のための覗き穴であり、わたしのために用意されたものではなかった.

小夜が見たものは、舞台においては、区画:空地、或いは葬儀場に対応・→

 

三つ目の覗き穴を見終えた小夜は、怖くなってそのまま壁を伝い、ホールを抜け、外に出た.即ち、最後のダンス.

小夜が見た光景は、小夜にしか見れないものであり、小夜にとっては、逃れたいものであったのかもしれない.

入口脇には、ホテルの名前だろうか、“あなたのホテル”と記されたプレートが立っていた.

これまで幾度となく出入りしたにもかかわらず、初めて見る看板であった.

 

小夜、ホテルからの逃亡、捕獲.

  • ホテルの外は真っ暗だった.すべての外灯は消えていた.
  • 小夜は腹ばいになって、時には直線的に、時には蛇行し、小夜は夜の町を逃げ続けた.
  • 小夜は夜の中で、するするとあらゆるものとの距離を縮めていった.すべての距離が失われ、自分自身との距離も失われたので、小夜は蛇となった.更に距離を縮めたので、小夜はこの町になった.
  • 小夜はとても疲れていたので、ある場所で体を休めた.
  • 多くの足音と、語り合うような声が聞こえた.「もう少し右だ.否、左だ、それじゃあだめだ、美しくない. 」
  • そこはいつもの空き地だった.
  • 小夜は多くの人たちに囲まれていた.
  • いくつもの目が真上から小夜を見下ろしていた.それはまるで、遠い昔、初原で、父と台紙に固定された蝶をファインダーから覗き込んだように.
  • 優しかった父の姿があった、すり替わった母、塗師の女、闇で出会った人、空地で対話した人、形象は失われてはいたが、それはそれであると分かった.
  • 但し、優しかった母の姿はなかった.
  • 少し離れたところに、二本の角材が置かれていた.一本は長く、一本は短かった.
  • 次の瞬間、小夜の目は、立ち上がる一つの姿を見た.成長した魚釣りの少年、即ち、“ 私 ” だ.

 

小夜は、ずっと気になっていたことを聞こうとした.

あの時、あれほど寂しそうな顔をして、私に何を言おうとしたのかを.

 

小夜は疲れ果てていた.

すでに視力は失われ、形象はもうとうに失われ、しかし、それはそれであることは、分かったし、今では、これまで以上に、それはそれであり、それではない事が明瞭であった.

どこから現れたのか、頭上には一匹の蝶が舞っていた.

あれほど苦労した、蝶の捕獲でさえ.今では、何の苦労もなく、蝶を捕獲することができた、できそうだった.

小夜は手を伸ばし、捕まえた.

小夜は、朦朧とする意識の中で、遠い昔、初原、行列する集落での父との蝶取りを思い出していた.遠い昔、塗師の女が語った、蛇晒しの言い伝えを思い出した.

 

夜の最も深き所で、快楽を貪り合う二つの影、一匹の蛇、そして一人の女.欺きの欺き、またの名を乱脈、転じて乱倫.即ち、小夜、優しかったお前の母だ. 

小夜によるメモがない今、小夜がそれを見たかどうかは分からない、のだが、

 

小夜、始めよう.小夜、最後のダンスだ、小夜、小夜、

 

わたしが愛してやまない者よ、いまだ愛を知らぬが故に、愛となる者よ.

あなたが、わたしにつけた無数の傷で、わたしは、あなたを飲み込もう.即ち、私はあなたに飲み込まれる.常に、常に、飲み込み、飲み込まれ、その都度、その都度、飲み込み、飲み込まれる.

そして、私は、あなたの中で生きよう、異形の大地として.私は、あなたの中に、異形の夜を張り延ばそう.

その時、あなたは、失われる.

 

これは愛の物語だ.

 

小夜、踊ろう、小夜、